天皇をめぐって〜女性・女系〜

小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が女性・女系天皇の容認を打ち出したことで、さまざまな論議を呼んでいる。

読売新聞の『三笠宮寛仁さま、女性天皇容認に疑問…会報にエッセー』と題する記事では、三笠宮氏が女性(or 女系)天皇について否定的な意見を明らかにしているらしい。

市販されていない会報での文章が公開されるのはどうかと思うが、「万世一系、一二五代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」を主張されているらしい。

立場上そのように言う必要があるのかもしれないが、この方、歴史をご存知ないのだろうかと訝ってしまう。

また人気ブログの「三輪のレッドアラート!」では、「外交儀礼における天皇の相対的地位」として、「現在、世界で Emperor(皇帝、天皇) として認められているのは日本国天皇陛下だけなのです」として、それを次のような国際的な慣行における順序付けとしてあげている。

「ローマ法皇(Pope) = 天皇・皇帝・女帝(Emperor、Empress) > 国王・女王(King、Queen) > 大統領(President) > 首相(Premier)」

問題は「天皇・皇帝・女帝」として、Emperorに皇帝、天皇が入っていることだ。もちろん天皇が英訳される場合、Emperorとなる。

しかし皇帝と天皇はまったく意味合いが異なる。皇帝は秦の始皇帝やナポレオンなど他の国における称号として利用されるのに対して、天皇は唯一日本国の場合にしかあてはまらない。

実際、中国では天皇という用語はほとんど使われたことがなく、日本で独自に使用されていた(これはおそらく対中国意識の現われでもあるだろう)。

以前言及したように「13世紀初期から18世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない」。その間、京都にいたのは、「在任中は『禁裏(様)』『禁中(様』『天子(様)』『当今』『主上』等と、退位後は『仙洞』『新院』『本院』等と、そして、没後は例えば『後水尾院』『桜町院』『桃園院』と呼ばれた」人々であり、「江戸時代人は、『後水尾天皇』などとは言わなかったのである」(渡辺浩『東アジアの王権と思想』7頁)。

「初代天皇」として記述されているのも、神武天皇崇神天皇(第10代)があり、よく言われているように神武天皇の存在は架空のものである(ただ東征そのものについては何らかの伝承や事実に基づいているようだ)。

源氏物語』に見られるように、平安時代の朝廷では、血縁関係などは相当おかしなことになっているし、そもそも日本の家は血縁関係など重視していない。

日本の養子制度は中国や韓国といった儒教の血統を重んじる社会においては、とんでもないことであり、倫理的に重大な問題であったのである。

だから天皇家であれ血統がどうのという議論には、日本の場合、正直どうでもよい問題ではないかと思う。

巷で血統が問題にされるのには、様々な理由があるとは言え、昨今血統なるものが稀少価値を帯びているということもあるかもしれない。それは不遜かもしれないが、雑種やどこの出自か分からぬ犬が増えすぎたために血統書付きの犬がもてはやされるのと同じことだろう。

茶道の場合でも、ピラミッド型の家元制度の充実ということも相俟って家元の地位は高い(とくに裏千家)。人格が優れているから尊敬されるというよりも、家元だから尊敬の対象になっているようだ。

そしてこれはとくに取り巻きの人々がそのように意識してもてはやすから余計に家元の位置が高くなってしまう(最近の裏千家からはいろいろ妙な話が聞こえてくる.....)。

ともあれ、女系だ男系だと騒ぐ前に、天皇制そのものについて議論をした方がよいのではないか。

いや、天皇制そのものについての議論が難しいから、まずは女系・男系で議論しているのだということかもしれない。

けれども昭和天皇が亡くなった時に丸山が言っていたように、天皇という位置につく人間に対して人としての配慮がない天皇制論は自己満足の議論でしかないように思われる。

天皇家の人々をそれぞれ一人の人間として見るならば、飢え死にすることはないにしても、あのような自由のない非人間的な環境が、天皇家を崇拝すると称する一方的な片思いの人々によって維持されていることに否をつけつける必要はあるのではないか。