外相の素質

第3次小泉内閣が発足した。外相にはなんと麻生氏である。朝日新聞の記事では「麻生総務相を外相に横滑りさせた理由について、首相は「内政に詳しい人が外交に当たるのがいい」と説明した」らしい。

内政と外交が随分と異なるのは常識のように思われるが、それはさておき、麻生氏は失言に事足りない政治家。

「総務相当時、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言し」「北海道ウタリ協会は31日、「アイヌ民族の存在を否定するような発言で、憤りを覚える」とする抗議文を麻生氏と小泉首相あてに送った」ようだ。

発言の趣旨として、「その後、同協会に麻生氏側から「民族、言語、文化が大幅に入れ替わらず比較的まとまってきた日本の特徴を述べた」とする書簡が送られてきた」らしいが、当然「協会は抗議文で「アイヌ民族の独自性などを排除してきた歴史的認識に欠けていて、到底容認できない」と指摘。アイヌ民族についての麻生氏の考えを返答するよう求めている」らしい。

他国の状況どころか自国の文化もろくに知らない政治家が外相になってはまたもや数多くの失言が飛び出すだろう。第一「一文化、一文明、一民族、一言語」とは理解不可能なことである。

政治が人の生命や財産を左右するという意味で(そして権力という暴力装置に関わるため)、政治家には強烈な責任意識がなければならない。小泉首相もそうだが、どうもその辺りがいい加減な政治家が多い。。。軍隊教育や体育会系のしごきのように頑張っていますという姿勢を見せればよいわけではない。

強烈な責任意識はもちろん発言にも反映される必要がある。話は飛躍するけれども、自国の文化を省みる契機はたいてい異質なるものとの出会いにある。ゲーテが言うように、ドイツ語しか知らない者はドイツ語を知らない(丸山眞男のように、江戸時代を研究するならば、最低限!?中国語、韓国語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語ポルトガル語ラテン語などを習得しなければならないというのは正論だが、ちょっとツライ....)。

自国の文化を省みるということでは、例えば茶道を始めるパターンの一つに、外国でお茶のことを聞かれたからというのがある。例えばアメリカ人から日本人なら日本のことはご存知のはずですね。ところでお茶とはどういうものですか?といった質問を受けて答えられず、日本に帰ってお茶を始めようというパターンである。

和辻らをひくまでもなく、欧米に留学して「日本」に目覚める人は明治以来数多い。また「日本人だから」日本のことを知らなくてはということでお茶を始める人も結構多い。そのようにして日本を「発見」する人も多い。

江戸時代、お茶は芸事の一つでしかなかった。それに家の存続に危険なほどのめりこんではいけなかった。そもそも「高級な文化」は圧倒的な貧富の格差があってこそ初めて可能だった。

今現在、日本の階層化が問題視されているが、国民の圧倒的多数が貧しい側にあった社会状況を見るのに100年も遡る必要はない。

また日本人は概して綺麗好きで礼儀正しいという報告が江戸末期日本にやってきた外国人によって記録されていると、その見聞録から一挙に日本列島に住む日本人全員は昔から綺麗好きで礼儀正しかったのだという美化へと進んでしまう。

もちろん美しい点は歴史の中にいくらでもあるだろう。けれども同時に醜い部分も同じほどある。そしてその美しい点は醜い部分があるからこそ美しくいられるということが多々ある。両者はコインの両面なのである。

上で触れたように「日本人だから」「日本のこと」を知らなくてはという強迫観念がある。そのような場合、どうしてもコインの片面しか見ないことが多いのではないか(トータルな認識などできないことだが)。

ともあれ外交関係に携わる人はとくに自民族中心主義に陥りやすいのだから、バランス感覚のよい人が選ばれなければいけないということから、ついいろいろなことに連想が飛んでしまった。。。