靖国、歴史のことなど

論文で煮詰まったので、高橋哲哉氏の「首相の『靖国』参拝何が問題か」を読む。

靖国参拝憲法政教分離原則に抵触することが大きな問題となっているが、高橋氏が言うには、自民党の改正案の中ではこれを以下のように書き換えようとしているらしい。

「「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教的活動をしてはならない」となっている。宗教的活動に対する公金支出の禁止(89条)にも、同様に「社会的儀礼の範囲内にある場合を除き」と例外規定が入る。要するに、国や自治体が公金を使って宗教的活動をしても、「社会的儀礼の範囲内」であれば許されることにしようというのである。」

高橋氏の指摘を待つまでもなく、一部の例外を除いてキリスト教教団や仏教教団がこぞって戦争協力を行なった過去については様々な形で反省が行なわれている。

しかし

靖国神社は19世紀の末から日本がアジア侵略を開始し、一大「植民地帝国」をつくり上げ、日中戦争から太平洋戦争を経て敗戦に至るまで、一貫して天皇の軍隊(皇軍)の神社として、日本の戦争と植民地支配を支え、美化する役割を果たしてきた。「靖国で会おう」という言葉は、そうした戦争や植民地支配を遂行する「お国」のために死ぬことを日本軍兵士に奨励する意味を持っていた。ところが首相は、「心ならずも戦場に散った方々に感謝と敬意を捧げる」とか、「二度と戦争を繰り返さない、平和を願っての参拝だ」というだけで、靖国神社こそが戦争や戦死を美化してきた事情に決して言及しないのである。」

現実の政治日程として憲法「改悪」が目前に迫る中、憲法9条の「改悪」とワンセットでこの政教分離原則が「改悪」されると、まさに戦前の体制へとまっしぐらとなる。国外での戦争に行くこと(=人を殺し殺されに行くこと)が称揚される体制となり得る。人権擁護法案共謀罪の規定を見ても、どうも怪しげな国家体制が整いつつあるように感じられてならない。

もちろん戦前の体制そのままが実現されるという妄想は抱かないが、どこかのお話にあったように、気が付いたら、或る朝、自由な意見が言えない世界になっていました、ということは十分あり得る。

そして一方でパチンコや競馬、スポーツ観戦に興じる日常は存続するから、一般的には世界がそれほど変わったとは思えないかもしれない。戦中がそうであったように、大多数の人々が世界が変わっていたのだと気づくのは、そうした体制が「誤り」であったと判断されるずっと後の時になってからのことである。

歴史の評価は時代によって動くと言う。スターリンでさえ「褒貶」の後は「毀誉」である。しかしここに潜む相対主義にはどこか危うさがある。自己の行為に関する責任意識が抜け落ちてしまうし、そもそも歴史の見方として問題を設定する視点の移り変わりということが時代の移り変わりによる評価へと滑り込むからだ。

歴史事象はどのような問題関心からアプローチするかで、当然のことながら評価が変わってくる。評価軸が変われば、当然それが対象としている事象の評価も変わるのだが、どこかに「歴史の真実」が存在すると措定されると、1つの歴史解釈しか受容されないか、或いはそもそもそれが不可能事であることを理由に相対主義へと陥ることが多い。

そうした陥穽を避けるためには、日々、人として誠実な生き方を目指すことだろう。人としてというのは意味内容が曖昧で分かり難いが、人を殺すなといった最低限の道徳でよい。それをおさえてさえいれば、すべてがよいとは思わないが、それほど大きな問題も起こすことはないだろう。

非常に初歩的な話だが、そうした点を自己の基本に留めておけるよう自戒しておきたい。