アドホック

つい現実逃避的にネットを斜め読み。五十嵐仁の転成仁語で、18日の閣議の記者会見で、相変わらず失言の多い麻生太郎総務相が「靖国神社の問題が解決すれば中国、韓国との問題がすべて片付くという幻想は抱いていない」と述べていたらしいことを知る。

五十嵐氏が「小泉さんが靖国参拝をとりやめれば、「問題がすべて片付く」と誰が言っているのでしょうか。すべての問題が片づくなんて、そんなことは誰も言っていません。
 しかし、少なくとも、この参拝によって生じた問題が片付くことだけは明らかでしょう。また、新たに問題が生ずるということもないでしょう。だから、参拝を止めるべきだと言っているのです。」と言うように、小泉首相には靖国を参拝することによるマイナスの影響がどれくらいあるかという点についての比較考量がないのだろうか。

ところで、こうした「あの国(=米国)を思い、この国(=日本)を作る」と揶揄される米国追随の外交でなく、東アジアとの友好関係を築こうとするわけでもない小泉首相アドホックな外交姿勢を見ていて、某濱市立大学の最近のカリキュラムに連想が及ぶ。

石原都知事の文学ルサンチマンから発する大学改革で、有能な先生方が大量に流出してしまった都立大学改め首都大学東京(向こう3年間は両大学が並存する)と同様、松下政経塾出身の中田市長が肝心の利権には手をつけないで目先の改革を追求した結果生まれた新しいカリキュラムでは、語学は英語に絞られ、東アジアの言語がほとんど選択できない。

国際語は英語だから、非常勤を使った外国語教育は不経済ということらしい。何も貿易相手国としての対中関係が重要だからというだけではなく、およそ言語はそれが使われている国を理解する上で一番重要な手がかりであるはずで、政治然り、文学然りだろう。

従来あった商学部、国際文化学部、理学部を統合した国際総合科学部という不思議な名前の学部を作ったのは、従来教育と研究とが混在していた大学で、研究機関としての大学でなく、教育機関としての大学に特化するかららしい。

学生運動の際にも問題になったが、専門を身に着けないで総合性、国際性を主張してどれくらいの意味があるのか疑問である。かつてM.ヴェーバー社会学は院生レヴェルでないと教えることはできないと言った。学部で身に着けた専門の学問があって初めて社会学は教えることができるのだという趣旨。学部生から時事的な問題にのみ対処できる能力を身に着けるというテクニック重視の教育ならば、いっそのこと企業に就職してしまった方が早いのではないだろうか。

諸外国の事情も直接現地に赴いた方が何倍もよく分かるはずだ。最近の大学改「悪」を見ていると、それが進めば進むほど、大学の存在意義がますますよく分からなくなってくる。

我田引水だが、原理や思想に関わる問題を20代のうちに学んでおかなければ、判断枠組みがとても偏頗なものになってしまうのではないかと危惧する(もちろん、学んだからと言って、偏頗になるのは仕方ないが、少なくとも、偏頗であることの自覚は生じるだろう。。。おそらく)。