ホワイトバンド再び

ホワイトバンドをめぐっていろいろ議論が沸きあがっていたようだ。「ホワイトバンド詐欺」という言葉も出回っている。ホワイトバンド購入費300円が貧困国に寄付されると思っていたら、まったくされず、NGOの活動費などになるため詐欺だということらしい(これはホワイトバンドの趣旨を理解されていないので詐欺とは言えないだろう)。

一方、貧困撲滅のための政策を採用させるために様々な活動を行なう資金集めという行為自体を「詐欺」と言っている場合があるようだ(またNGOによって活動費に当てる割合が異なるらしい。こちら)。

テレビで見たことがなかったホワイトバンドのCMを、先日渋谷の交差点の巨大画面で観た。ホワイトバンドの活動がどうであるかの判断は別にして、あのCMからはよい印象は受けない。3秒毎に人が亡くなって行くことの表現として、指を鳴らすのは不適切ではないだろうか。指を鳴らすのは概してリズムをとるか、人に指図する際くらいしか使わないからだし、そもそも亡くなっている人の数を。

ホワイトバンドをめぐってこちらのブログでの書き込みで気になることがあった。

賛否両論の書込みで様々な論点が飛び交っているのは当然だが、その中で、ホワイトバンドを買おうが買うまいが個々人の自由だから、批判はしてないでもらいたいという意見がある。

もちろんホワイトバンドを買うか買わないかは個人の自由である。だがホワイトバンドがどういうものであるかについて意見を戦わせることが、買った人々に人格攻撃のようなものを惹起させているようだ。

つまり自分のコミットしたものへの批判が即人格への攻撃へと映るようなのである。おそらくコミットしたものが何らかの価値の場合、こうした機制はより弱くなるだろうけれども、具体的な組織や団体の場合にはより強くなる。

組織は生き物と同様に自己保存のメカニズムが生じるので、組織防衛のためのメカニズムが例えば組織内倫理という形で組織の構成員に課される。

それは「規則」という形で明示される場合もあれば、組織への所属という意識から生まれる場合もある。

たとえ正しい批判であったとしても、やり方を少し間違えると、人々の同意をとりつけるのは難しくなるが、個人の自由な選択の問題と事柄そのものが妥当であるかどうかの判断の問題は大きく異なる。

或る主張は或る視点や角度からのみ言われているということが全称的な命題として受け取られてそこから人格攻撃へと短絡するので、こうした問題は実践的な場面では意外なほど区別が難しい。。。