共産主義からの連想

先週土曜日の集まりで、ロシアとイタリアの気質が似ているのではないかという話があった。オーヴァーな身振り手振り、表現の仕方、おおらかなところなどなど。そして共産党が強かったところでもあるという点。言われて見るとなるほど確かにそうかもしれないと思い当たる。

ところで共産主義とは平たく言えば、誰も食べるのに困らない社会を理想とする。共産主義的な思想傾向が強いところは、宗教の影響でもあるように思われる。イタリアはローマンカトリックの総本山であり、ロシアはロシア正教の総本山である。

プロテスタントが神と個人との関係から自助を徳目として、貧乏は救われていない証拠と断罪する傾向にあった(厳格なプロテスタントほどこの傾向が強い)のに対して、カトリックは信徒と神の間に「見える」教会が介在し、普く人々を救済しようとする(しかしそれ故の制度疲労が、例えばヴァチカンのサンピエトロ寺院建設のための免罪符発行となって表われる)。

浄土真宗プロテスタントに比されるけれども、プロテスタント上座部(小乗)仏教、カトリック大乗仏教といったところか。

プロテスタントは概して「見えない」教会=救われた人々の共同体というヨコの関係に重きが置かれるのに対して、カトリックは「見える」教会の権威などのタテの関係に重きが置かれる。Weber的には自発的集団としての教派(Sekte)と生まれながらに集団内に取り込まれる教会(Kirch)との違いか。

話がずれてしまったが、集まりの話の中で、イタリア中、共産主義者がいるという話があった。確かに知り合った大学生でもマルクスグラムシなどは読んでいた。

他人との競争に負けないよう頑張れとか、世の中は勝ち組と負け組みとに分かれるといった考え方をベースにしたネオリベラルの発想はどうも貧しいように思われる。

『競争社会をこえて』
という本があったが、ほどほどの懐疑と共に皆が食べるのに困らない社会作りを目指すのがやはり種々の財の分配に関わる政治の本道ではないか。

ところで、いろいろ事務上のミスが続発。やはり頼まれるままに引き受けると許容量をオーバーした際に問題に遭遇してしまう。

やれることは限定してとりかからないと大変なことになってしまう(反省)