またか

と、徐々に慣れさせ、たいしたことがないように思わせて感覚を麻痺させる。自衛隊の海外派兵などはまさにそうした過程だった。

昨日の午前中、小泉首相靖国参拝を行なった。朝日のニュース記事には「今日の平和は生きている人だけで成り立っているものではない。心ならずも戦場に赴いて命を失った方々の尊い犠牲の上に成り立っている。戦没者に感謝の気持ちを伝えることは意義あることだ」と語ったらしい。

今日の平和がどのような条件の下で可能になり、またなり得ているのか。あらゆる先人らに感謝の気持ちを捧げることに異論はない。しかし敗戦という経験が大きな要素になっているのは疑い得ない。

だから戦没者尊い犠牲で平和が成り立っていると言うのは、どういうことなのか、よく分からない。言葉通りにとるなら、戦没した人々がいて、戦争に負けたから今の平和があるということになる。もしそうであるならば、戦没者の犠牲なるものは無意味であったわけで、逆に彼らを貶めていないか。

心ならずも戦争に駆り出され、志半ばに無念にも戦場に散った人々のことを真摯に思うならば、あの戦争を賛美している神社に合祀し、参拝することは彼らの冒涜になりはしまいか。

また戦没者に感謝の気持ちを「伝える」と本気で思っているのならば、そこには戦没者という他者はいない。だから当然合祀されていることに反対する多くの遺族の声も聞こえてこない。

「心の問題に他人が干渉すべきじゃない。ましてや外国政府が、戦没者に哀悼の誠をささげるのを『いけない』とか言う問題じゃない」とも小泉首相は語ったらしい。

心の問題に他人が干渉すべきでないというのは当然の事理である。ならばなぜ東京都教育委員会が国旗・国家を強制することに批判的でないのか。

なぜ外国政府が批判をするのか。それはこれから日本との友好関係を築こうとして、各国国民に日本政府の真摯な態度を説明してきた各国政府からすれば、日本政府のトップが侵略を美化する神社に参拝をすることは到底看過できることではないだろうからである。

それよりももっと重大な問題は憲法に関することである。これらの論点は出尽くしているから、いまさらこうしたことを言いつのることは正直疲れる。

しかしまぁいいかとか、仕方ないかということでズルズルと肝心なことがなおざりにされてしまうことは避けなければならないだろう。

憲法改悪が目前に控えている時期、わずかでもやれることをやらなければならないと感じる......。