驚異の初窯

先週末、窯焚きの手伝いで、長野県は上田の青木村にある古窯(本松陶秋氏の窯)に行った。万葉の時代から続く田沢温泉が傍にある静かな村である。

夜は満天の夜空。梟がホウホウと鳴き、香ばしい料理の匂いに誘われて狸が迷い込む。観音山からハクビシンの鋭い鳴き声も聞こえてくる(SARSの影響でペットのハクビシンを山に放した人がいたらしい)。

泊り込みで窯焚きを手伝うのは初めての経験である。おそらく最後の窯焚き師(焼き物師)であるので、少々緊張しつつ窯場に足を踏み入れる。

ところが、窯場は冗談も頻繁に飛び交うほどリラックスしている。それに次々と人が訪れる。熊の仕掛けを見に来たついでに窯焚きの様子を伺いに来る近くの人(お茄子のお土産付)、隣家の人は自分の林檎園から林檎をもぎとってやってきたし、家具屋さんも様子を見にやってきた。

そして自然と多くの人が手伝いにやってくる。本松氏は本来ならば親方であり、手伝いに来ているAさん、Tさん、Aさんは弟子にあたる。

しかし本松氏はそうした言い方を好まず、仲間と呼ぶ。徒弟制というものが現代では不可能であるということを踏まえてそう呼ぶらしい。

かつて焼き物には窯焚き師というものがいた。窯焚きを生業として、全国を歩き、各地の窯場で注文どおりの焼きを行なっていたらしい。本松氏曰く、陶芸家なるものが出てきて、すべてを一人で行なうようになってからレヴェルが下がった。

実際、彼のように何百回と窯焚きを経験している人は現代ではほとんどいないし、例えば漆器でも20人くらいの職人が関わっているらしいから、それを一人で行なおうとすれば、どうしても無理がかかり、各工程の習得がおろそかになってレヴェルは下がってしまうだろう。

さて、本松氏の穴窯は今春、古窯(こよう)と改名された。それまでは七窯土(ななかまど)だったから、今回の窯焚きは初窯ということになる。

所用の都合で残念ながら窯焚きの最初から見ることはできなかったが、本松氏の場合、素焼きはしない。乾燥させた作品を直接焼き始める。

燃料は赤松と楢で、今回はそれらを交互に使った。今回は900℃前後が焼きを決める重要なポイントだと言って、窯の炎を肉眼で見据え、薪を投げ入れる(1000℃近い窯の中を見た後、窯の外を見て目がちかちかするようでは修行が足りないそうだ.....)。

要所要所では窯場は心地よい緊張感が漲る。そして気を抜いてよい時はとことん(かどうかは分からないが)抜いている。

今回の窯焚きでは、火入れが9月28日の午後4時。薪をくべるのを止めて、窯の穴を塞いだのが9月30日の午後8時。

つまり52時間しか焼いていない。通常72時間くらいは焚くし、下手な場合は1週間も無駄に焚いている。それがこの時間である。

しかも無理矢理52時間にしたのではなく、それ以上薪をくべると、作品も耐熱性の棚板も崩れる危険があったので、止めたのだった。それほど火の入りは傍から見ていて凄かった。

お弟子さんたちはこの焼き方は世界最速だろうと言っていた。本松氏はほぼ計算どおりとのたまう。。。もう一晩頑張らないといけないと思っていた私は少し拍子抜けてしまった。それくらいあっという間の窯焚きだった。

窯焚きの途中、倒れた作品を幾つか窯から引っ張り出した。鉄の棒で引き出された作品は黄金色に輝いて美しい。

作品から垂れているのは自然釉である。本松氏は基本的に焼き締めの作品を作っている。焼く前に釉薬をかけず、灰が作品に舞い降り、ビードロのような景色を作る作品である。

この花器は向こう側に倒れていたもので、上の画像からも分かるように下部に自然釉がべっとりと付着していた。

しかも倒れていたから、黒い灰も付着している。前回は真っ白な自然釉の壺を作られていたが、今回の窯ではいったいどのような作品が生まれているのか、窯出しの折が楽しみである。