ファシズムの現代的状況

1952年丸山眞男は「ファシズムの現代的状況」という話を信濃町町会でしている(『戦中と戦後の間』所収)。

1950年代アメリカで吹き荒れたマッカーシズムを念頭に置きつつ、ファシズム自由民主主義の下でどのように生成してくるのかの次第を論じ、もって日本の政治状況に胚胎するファシズムの傾向をいち早く見抜き、指摘した議論である。

ファシズムの定義には様々あるとしながらも、「社会を反革命と戦争のために全面的に組織化しようとする内在的傾向」「社会の強制的同質化」(537頁)と捉える丸山の次の言葉は、現代においてもアクチュアリティーをもっている。

アメリカのように本来の自由主義の原則が長く根を下ろしていたところでさえ、自由を守るために自由を制限するという考え方は、現在の客観情勢の下ではズルズルとファシズム的な同質化の論理に転化する危険があるとするならば、わが日本のような、自由の伝統どころか、人権や自由の抑圧の伝統を持っている国においては、右のようなもっともらしい考えの危険性がどれほど大きいかは言わずとも明らかであろうと思います。」(548〜549頁)

小泉改革はある種のファシズム化を政界においても、一般社会においても進めている。それは彼のブッシュを真似た勧善懲悪的、あるいは幼稚な善悪二元論に明らかで、多様な意見とか、自由を口にしながら、その実、「或る枠の中」での多様な意見と自由でしかない。

「現存秩序の心臓に触れる事柄が公然と論議され対立意見が戦わされる自由があるのかないのか------それが凡そ一国に市民的自由があるかどうか」(541頁)からすれば、彼らの中にはどうもそうした要素は希薄である。

現在ファシズムと言うとナチスや戦前の日本のような体制のみを指すように一般に解されているが、そうではない。

ここで改めてデモクラシーの意義を見直してみることは重要あろう。

「エキスパートに対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色のひとつだとエリヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野にまで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させて行くのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成り立っているものです」(552頁)。

「政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。政治のことは政治の専門家に任せておけという主張はこの精神と逆行するものですが、とかく近代社会の分業と専門化に伴ってこういう考え方が起こりやすく、これがファシズムの精神的培養源になるわけです」(553頁)。

この衆院選(に限らないが)は「主権在民」を再考する契機としたいものだ。