21世紀の生命倫理

昨晩は知り合いの某助手の好意で、本郷で開かれた講演会に参加。

昔、『技術と人間の倫理』をテキストにしたNHKの番組で拝見した折は、お話の上手な人だなと思ったが、今回も、これまでの生命倫理に関する動向を様々な具体例を示しつつ見事に纏められている。

お話の核は、基本的に生命倫理自由主義生命倫理を基調とするが、近年、その限界が意識されてきた。理論的に出口が見えない中、日本の生命倫理に関する立法が不確実な根拠に基づいていることを批判するというもの。

自由主義生命倫理は、「1.(valid consent)成人で判断能力のある者は、2.身体と生命の質を含む『自己のもの』について、3.(harm-principle)他人に危害を加えない限り、4.(the right to do what is wrong愚行権)たとえ当人にとって理性的に見て不合理な結果になろうとも、5.(autonomy)自己決定の権利を持ち、自己決定に必要な情報の告知を受ける権利がある」というもの。

この倫理では、安楽死緩和医療、人工妊娠中絶、インフォムドコンセント、輸血拒否の問題が射程に入る。

一方、この倫理では対処しきれない問題として、第1に、脳死遺伝子治療、生殖補助医療、性同一性障害、enhancement問題、ドーピングなど、社会的な許容規準に関わる生命倫理がある。

第2に、ヒトクローン胚、ES細胞、異種移植といった細胞工学の倫理基準を定める未来型の倫理問題がある。

これらの新しい問題に対処するには、自由主義を実用的なヴァージョンで理解する必要があり、それは他者危害原則とパターナリズムとを合わせた実用的な自由主義とされる。

ただこれらをどのように合わせるか、或いはまたどのような原理を付加すれば、生命倫理の問題群に有効に対応できるのかは明確ではなく、「立法に向けた合意形成の方法論を確立しなくてはならない」となる。

とりわけ遺伝子治療は個々人に対処するものなので、これまで全体に関わる政策決定方式としては有効だった多数決制が有効に機能しなくなる恐れがあるという点については、よく考えなくてはならないと思われる。

臓器移植や生殖補助医療などの遺伝子治療では、わずかな人々の治療のために巨額の研究費を投じるべきかどうかは、多数決制の下では否決されやすく、「少数者はつねに医学の恩恵から排除されてくる」可能性が生じるわけだ。

現在の生命倫理に関する審議の場では、例えばクローン禁止の理由として、1.人権侵害、2.生殖の常識からの逸脱、3.特定目的への手段化、4.安全性の問題が挙げられているが、4以外は理由としては根拠がないと纏められている。

この辺りは、非常に功利主義的な議論に感じて面白いところだったが、現状の生命倫理学がやや袋小路に追いやられて、四苦八苦していることが伝わってきた。

さて、今日から小淵沢で合唱の合宿だ。