騒音、標語漬けの社会

さて、続き。

著者の中島さんは日本社会を音漬け社会と形容する。「よい子の皆さん、家に帰りましょう」「おはようございます、今日も元気に働きましょう」(!)といった防災行政無線、店外にスピーカーを向け大音響で鳴らす店、電車やバス内での不要な放送(「駆け込み乗車はおやめください」).....。

こうした放送による規律の発想には自己で責任をもち決定し行動するという人間ではなく、他人、とりわけお上からの指示を受けて初めて動く人間というものが想定されていると指摘する。

中島さんの批判はさらに彼が世間語と呼ぶ、丁寧ながら当人の感情を一切含まぬ言葉遣い(銀行が顧客に対するように)、素晴らしい好天でも蛍光灯を付け続けるお店や大学構内での電気の無駄な使用などにも向けられている...

問題の根は深い。

圧倒的大多数の人々がそのようにアナウンスで行動を指示され、促されることに対して特に何の不快感も持たないから、音漬け社会を変えようとすることは絶望的なほど難しいと言う。(もちろん程度の差こそあれ、不快感をもつ人々は多々いると思われるが)

アナウンスも、「万が一」とか「もし」という発想であらゆるリスクと責任を回避し、万が一事故があった場合の弁解として、「とりあえず」危ないですよと知らせるためだから、微細に、そして執拗に繰り返される。

例えば、バスで降りる際「バスを降りた後の横断は危険です」、電車に乗る際「一部電車とホームとの間が空いていますので、ご注意ください」「ご乗車になってお待ちください」、銀行のATMでは「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」、銀行の窓口では「○○番の番号札をお持ちのお客様。○○番窓口へどうぞ」.....。

ただこの過剰な注意放送と弱視視覚障害の人との関係については、これからもう少し考える必要があると中島さんは言う。

確かに目が見えない人が街を出歩くとき、何らかの指標がないと自由に歩けない。知人から聞いたところでは、年に何度かはホームから転落することも稀ではないらしい(彼らのためのブロックも企業で規格が異なっていることがある)。

そばにいる人々が何の気遣いもなく、行き先や方向を教えたりして手伝ってあげればよいが、親切心が仇となることが多い都会では、なかなか気軽に寄り添うことはできない。

日本社会に、静けさや無を求める傾向と、騒がしさや猥雑さを求める傾向とが矛盾無く共存してしまう背景には、自然というものを観念的に捉えることがあると中島さんは指摘する。

また「日本人は『自然と共存』していたのではない。自然と人工との境のない環境の中に、そしてウチとソトの境のない環境の中に、違和感なく住んでいたのである」という指摘自体はよくある話だが、これをそうした二極化の傾向と関連させているところは面白い。

そのため、日本語話者「の『からだ』は、ちょうど季節の変化や天候などのような純粋な自然に抵抗しないように、人間的権力(共同体やお上)が作り出す環境にも抵抗しないのである」(丸山の言葉を借りれば、彼が政治意識として抽出した「つぎつぎとなりゆくいきほひ」だろうか)。

あくまでそのように抵抗せずに従うことが「自然な」こととされるから、水田の中に大型の看板をたてても、変に思わないし、海岸をコンクリートで固めても文句は出てこない。

「自然」はあるがままに変容され、そのまま受容される一方で、あるべき自然が観念的に受容され培養される。静謐でもなんでもない場所に静謐を感じることができる「日本人」の感受性はまったく不変のままであると言う。

つまり古来「自然」を愛でていた日本人は近代化によってその精神を喪失したのではなく、古来からの感受性はそのまま継承されていて、一貫しているというのである。

だから桂離宮秋葉原とは同じ思想の延長線上にある。茶室の静謐な空間を愛でる茶人は、同時に市中の猥雑な空間に違和感無く住める人なのだという指摘は、若干躊躇いはあるけれども真実だろう。

真に自然や季節の移り変わりを愛でるつもりならば、山中に庵を結んだ方がよいのだが、お茶の世界では、市中にこそ静謐な空間を生み出すことがよいとされる(これは武家や町人がお茶を受容したという社会階層の問題でもある)。

ともあれ、今の日本社会は確かに音で溢れている。溢れているばかりか、いろいろご丁寧に指示して下さる。そのような環境にいれば、だんだん「言ってもらわない」ことが不安になる。だから余計に「(雑)音」は増えてくるという悪循環。

「サインがサインを呼び、サインを増やせば増やすほどますます人々はサインに麻痺してしまい、さらに刺激的なさらに新奇なサインを求める、という構造も商業宣伝と同じである。(中略)。つまりほとんどのサインを拒否するような『からだ』になってしまっているのだ。……。新幹線の改札口で『ここでは乗車券はお持ちになって、特急券のみお渡しください』と何回も何回も放送が流れるのに、乗車券を渡す人がいる。
 聞いていないのではない。日本人の『からだ』は猛烈な管理放送と管理標語によって、定型的な動きをするよう鍛えられているから、『からだ』の動き方が極端に定型化しており、アド・ホックな(まさにここでの)サインを認めにくくなってしまっているのである」

文字は見なければ目に入ってこないが、音はいやおうなく身体を脅かす。もちろん街中には音だけでなく、文字も氾濫している。

仰々しい看板や下品な看板、電車内には壁を埋め尽くすような広告。街に踏み出せば、否、防災行政無線や政党の宣伝カー、竿竹屋のエンドレステープなど、恐ろしく、電気的な音に囲まれていて、街を歩くと、至るところに、文字が貼り付いている。しかも「横断歩道を渡りましょう」「あいさつをしっかりしよう」などの標語も溢れかえっている。

こうしたものに囲まれていれば、生活に疲れてくるのも当然ではないだろうか。

それも圧倒的多数の人々の支持を得て、こうした「疲れる」社会を作り、それからの癒しを求めて様々な享楽に走る。

いずれも消費資本主義を加速させる典型的な現象だが、それと本来は対極的な発想であるはずの「省エネ」とか「エコ」、「地球に優しい」という内容を伴わない標語も溢れている。

丸山は日本の思想を筒のように捉えた。つまり思想や考えを受容する枠はあるが、中は空洞だから、何でも取り込める。

そこで拒否されるのは世界観をもつもの、つまりキリスト教マルクス主義だった。それ以外はたとえどのような内部矛盾を持とうとも、並存してしまう。

そうした文化状況を加藤周一は雑種文化と形容したが、丸山は雑居文化だと言った。どこまでも関連無く、並存していて、矛盾が生じない状況.....。

そして日本では他人から要求される振る舞い方があまりに多い。だから異質な文化と接する場合に、日本語話者が気にするのは、何を言うと失礼に当たるかという至極消極的な態度となる。

日本社会でも、できるだけ誰にも(そんなことは不可能だが!)「迷惑」をかけない生き方をするよう強制される。

もちろん他人に迷惑はよろしくない。が、「こうすべき」という規範を唯一絶対のものとして、それに反する人々を排除する心性(メンタリティー)は余計に「疲れる」ばかりだろう。

社会の変革にはこうした敢えて「疲れる」社会を作るのを止めることが必要なのではないか(この止め方が一番難しいのだが)。