8.15

今日も暑い一日だった。東京九段の付近は警察や右翼の車両が目立つ。議員の靖国参拝を批判するデモに対して、右翼の車から嘔吐したくなるような凄まじく醜い怒号が飛んでいた.....。

お昼過ぎから日本教育会館で開かれた8.15集会に出る。最初の基調講演は28歳で「敗戦(終戦)」を迎えられた日高六郎氏。

戦後60年を振り返って」と題して、まず感慨深そうに遠くを見詰めてから徐に話が始まった。

今年で第41回目を迎える8.15集会は第1回が1965年に九段会館で開かれた。日高氏がフロアからの質問をお願いしていた丸山眞男はこう発言したそうだ。

1945年8月15日を画期として、初めて人々の自由な意思と選択によって平和国家を作るのだ、と。すなわち主権在民である。

日高氏はこの主権在民を我々は実感したことがあっただろうかと問われた。1945年8月15日までの日本では、昭和天皇を含めた7人の人間が国家の命運を左右した(最後通牒から3週間目にしてのポツダム宣言受諾!)。

それ以降は、国家の行く末を決めるのは主権をもつ民衆であったはずだが、戦後60年、一度として民衆が政府を動かしたことはなかったと日高氏は言う。

昨今の歴史の見直しについても、東アジア諸国の民衆や政府の声が高まって、日本政府もそれなりの態度決定をするようになったが、日本の民衆の声や運動には目もくれない。

ベトナム戦争においては、アメリカと安保条約を結んでいるオーストラリアが民衆の支持を得た政党が選挙に勝ってベトナムからの撤兵を実現し、イラク戦争に関してスペインでは1千万の人々がデモを行ない、撤兵を実現した。

民衆の力によって戦争を終わらせることはできるはずだが、日本で民衆の声が政治に反映されたことがあっただろうかと日高氏は問う――今でも数万人が国会を取り囲めば、事態はまた少し違う方向に動くだろうとも。。。

またアジアでの戦争を考える場合、1931年〜1975年までの44年間を戦争の期間として捉える必要があると言う。

石原都知事の問題にも触れ、都立大学の再編については、東京都立大学の教員や学生は何をしていたのかと痛切な声で訴えられていた。

氏のご高齢のため、十分な話は聞けなかったので、議論は十分には展開されなかったが、基調講演に足る素晴らしいお話だった。

次に第1部「私からの出発」として、海老坂武さん、渡辺厚子さん、杉田敦さんの講演。

フランス文学を専攻される海老坂さんは戦争と自身と記憶について語られた。次に都立学校の教員である渡辺さんが現在の東京都教育委員会の現状と過去についてお話になった。

渡辺さんは卒業式での国歌斉唱、国旗掲揚の際に起立をしなかったために、服務事故として減給6ヶ月の処分を受けられている。

国旗国歌法案制定の折も、これは強制ではないとの政府答弁はあるが、単なる答弁には何の拘束力もないし、いつでも変更できることは憲法9条をめぐる歴史を見れば明らかである。

東京都の締め付けについては、「2004年秋の園遊会に招待された東京都教育委員会委員を務める米長邦雄が『日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』という発言に対して天皇明仁)が『強制になるということでないことが望ましいですね』と返答している」(Wikipediaより引用)ことが思い返される。

この後、米長氏は、まったくその通り、有り難いお言葉を頂戴しましたと発言しているのであるから、驚き呆れる.....(右翼はなぜこの米長氏を糾弾しないのだろうか。右翼が現天皇をあまり好んでいないという話は伝え聞くが)。

ともあれ、渡辺さんのお話の中で、愕然としたことは今年3月の某都立の学校の卒業式で校長の要請により16人の警官が式場に立ち入り、不起立などの事態に対して刑事事件にまで仕立てようとしていたことだ。

人事考課や週案作成、経営支援センターの設立は、いずれも教員処分の徹底、警察との一体化、生徒への強制を睨んでのものである.....。

杉田さんの講演は、先月開かれた『境界線の政治学』合評会でのお話と少し重なるところがあったが、最近の小泉内閣を支持する人々のメンタリティーについて、このように指摘している。

概して、それらの人々はフリーライダーを糾弾し、そのことに正義感をもち、自立した人間を理想とする人々である、と。

彼らの論理は、自分たちは一生懸命働いている。それに対して、働かずに楽をしてさぼっている(ように見える)人々からは特権を奪うべきだというものである。

郵政民営化については特定郵便局が特権をむさぼっているという風に映り、だから郵政民営化を支持し、イラクでの3人の人質事件については、ちゃんとした!?職業についていない(親のお金で生活している)者が、世界の平和といった理想を掲げている偽善が許せないから、妙な「自己責任」論を支持し、田舎は都会の税収をむさぼっているとか、湾岸戦争時のように、お金は出すけれども、軍事的なただ乗りといった批判に応えるために軍事化を支持し、自律を擁護する。

自律については、個人の自律(福祉切捨てへ)、国家としての自律(「普通」の国のように常備軍を明記した憲法をもつという改憲論支持へ)といった自律への強制力(規律化!)が進行しているとする。

杉田さんの指摘では、郵政民営化に代表されるような官から民へという動きに対して市民社会論の側が有効な批判を出し得ていないという点が興味深かった。

彼の考えでは、市場と国家、市民社会という3項の関係が明確に位置づけられていないために、有効な批判がなされないと言う。

市場が社会の様々な領域に浸透してくると、市場価値からする短期的評価が支配的となり、長期的な評価が価値を喪失する(歴史・学問の衰退)。またケインズの「美人投票」の話を念頭に置きつつ、株式投資は自分がよい会社だから株を購入するのではなく、皆が買うであろう株を購入するという構造になっているので、コンフォーミズムに連なるという指摘。

 ケインズ美人投票のことをネットで検索すると、以下の文章に出会った。美人投票のことについて触れた後、「つまり株式投資では、自分の好みや考え方もさることながら、他人の考えをどう読むのかも大切になってくるのです。

(中略)
自分のことしか考えられない、他人の気持ちを理解しようとしない人が増えてきた現代では株式投資の達人が少なくなっていくのかもしれません。」(株式投資とケインズ

株式投資において他人の投資傾向を判断する能力と、他人の心中を察する能力とはまったく異なったものだが、その点が混同されている。杉田さんとはまったく別方向を向いた議論が展開されていて、それはそれでシニカルに興味深い。

閑話休題

 つまり国家と市民社会、市場と市民社会という関係を明確にしなければ、国家でないものをすべて民と捉える単純な発想に陥り、現在の官から民へと叫ぶ小泉政権に対して有効な批判がなしえないことになる。
 
 市場と市民社会との関係については、10年ほど前に俄かに盛り上がった市民社会論でもいろいろ議論があったはずだが.....。

第2部は姜尚中さん、遠藤裕未さん、小倉利丸さん。姜さんはグローバルなテロリズムから話を始めた。かつて政策が破綻すると政権交代を迫られたものだが、現在の日米は政策の破綻が強権的な政治を可能にしているという混乱した世相にあると言う。

今日は韓国では光復節(厳密には日本の植民地支配が終焉した日とは言えないようだが)。南北共同行事のためソウルを訪れている北朝鮮の代表団が朝鮮戦争で亡くなった韓国人の国立墓地である顕忠院を詣でる予定で、南北分断後初という。

南北は歴史的な一歩を歩んでいるのに対して、日本は拉致問題を契機に、ひたすら北朝鮮への憎悪を煽っている。これは1970〜1980年代の韓国の軍事政権下で見られた、北の関係者は殺してもよいという心性と非常に似ているという。

現在、韓国と北朝鮮が南北の和解を進めている中、日本はそれをサポートする役割を担わねばならないと言う。戦後60年における国際的な連帯の可能性の一つとして、その道作りはこれからでも十分に間に合うはずだ。

次に遠藤さんはピースボートについて話し、小倉さんは日本人というアイデンティティーを放棄することについて話された。

どうも長くなってきた。読み返してみると、メモ書き風に書き連ねただけになってしまった。

ともあれ、日高氏が9条と並んで、主権在民をもう一度強調する必要があると言われたことの重みを感じた一日だった。

集会の後は、某会社で、某デザイナーさんから、またデザインのイロハを教わる。お忙しい中、本当に感謝するばかり.....。

その会社に行く途中、靖国への議員の参拝を批判するデモに対して、ヤクザのような井出達の連中が騒ぎを起こして、警官に取り囲まれている。デモの意義をまったく理解できていないのは、おそらく社会を客観的な視点から眺めることをしてこなかったからだろう。

デモは力のない者たちが政治的意見を表明し得る数少ない媒体なのだから.....。

夜は久しぶりに源来軒で、ナスと豚肉のピリ辛炒め定食。炒めている最中に加えている茶色の液体が何なのか(老酒!?)。いつも気になる。

さて、仕事仕事.....。