靖国のことなど

靖国神社は日本の軍国主義の象徴であり、今尚明治以来の戦争を一貫して肯定する立場を堅持する。然るにそこでは戦争が人間を殺戮することでしかないという基本的な視点が見落とされている。

そうした血塗られた歴史において、たとえ植民地に学校や工場を造り、その国の近代化に貢献したとしても、同時にその国の人々の財産を収奪し、時には生命さえ不条理に奪った行為を正しいと言い包めるのは欺瞞でしかなく、それこそ現代に蔓延る道徳的退廃の大本ではないか。

もちろん靖国問題は一筋縄ではいかない。感情の問題としては、高橋哲哉氏が『靖国問題』で指摘するように「戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶」(18頁)がある。それは魂が揺さぶられるほどの感情の対立なのである。

このように遺族と言えども、靖国に対して一様ではない感情が渦巻いている。

某知人が、特攻隊員が自らの死の運命に対して、最終的に国のため、子孫のためと言い残し、無念にも亡くなったこと、供養してくれる家族も空襲(民間人を標的にしたまさに人道に反する罪!)で全滅した英霊を誰が供養すればよいのかと問うた。

特攻隊の問題に対しては、まず検閲によってそのような文言しか残せなかったことを考える必要がある。「銃後」に残された家族に「非国民」といったレッテルを貼られないよう配慮する必要もあった。

また特攻で死に追いやられた若き「英霊」にとって、愛する人々と別れ、志半ばにして死ぬことの無念さは、とどのつまりは戦争が発端なのであり、彼らからすれば、このような戦争さえなければ、自分は生きて、したいことができたはずなのだという思いがあった筈だ(『きけわだつみのこえ』にそれを見ることができる)。

それを戦争は正しかったのだと称揚する神社に合祀されることを彼らは望むだろうか。「靖国で会おう」という言説は、キリスト教徒が死んで天国に召されるという虚構と同じ論理で(『聖書』で説かれていることからは死んで天国に召されることなどあり得ないが、心の問題として理解はできる)、額面どおり受け取るわけにはいかない。

もちろん靖国神社に個々の人々が参拝すること自体に問題はない。いわばお墓参りの権利は誰にも平等にある(ただいわゆる「日本的な美徳」からすれば、自分の家族が神として祀られていることには恐れ多いと謙虚さを示す筈だが.....)。

しかし日本国の首相がわざわざ公約に掲げて、戦争を肯定している神社に参拝することが、どのような政治的意味を帯びるか、普通の判断能力があれば理解できるはずだ(小泉首相は自ら国会で言ったように、本当に理解できないらしいが)。

ただ私としては、どうも、こうした問題に拘ることはいい加減止めたい気がする。靖国問題が厄介だからではなく、これからの世界を構想していく上で、靖国問題の克服は前提であり、問題はその後だからである。

靖国問題で国内的対立が深まれば深まるほど、アジア地域や世界に対する対応は遅れをとることになってしまう。それを喜んでいるのはアメリカなのかもしれない.....。

ところで、先日、丸山の「超国家主義の論理と心理」を読んでいて、膝を打ったところがあった(某親友からは、どうかなという感想だったが)。

頂点たる天皇との距離如何によってのみ己の社会的位置が定められる中、上から下へと抑圧が移譲されるという機制が、戦争における日本軍の暴虐な振る舞いの所以でもあることを説いた箇所。

「国内では『卑しい』人民であり、営内では二等兵でも一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なることによって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於てまた軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所をもたない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己にのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかつたか(勿論戦争末期の敗戦心理や復讐観念に出た暴行は又別の問題である)」(26頁)。

このことに彼が付け加えている言葉はアクチュアリティーをもっている。

曰く、「思えば明治以後今日までの外交交渉に於て対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である」(同上)。

かつて丸山は「戦争責任論の盲点」を書き、政治的責任の重要性を説いた(この論文は石田雄氏によると、安保闘争に対する共産党政治責任を問うという同時代的な問題意識から書かれたもののようであるが)。

政治的責任とはあのような戦争を起こしたことに対して、或いはそれを防止することができなかったことに対して問われる責任のことであり、それは「権力体系に座を占めた人および種々の政治的エリット」に関わる。

その点で、丸山は体制側の天皇と、反体制側の共産党の戦争責任を挙げていたが、今度の衆院選改憲を問う重要な選挙である。

昨日の集会の閉めで、今の小泉首相が進めている自民党の党としての統一性の確保は、戦後様々な利権と絡みつつ派閥が存在していた自民党の党の性質を抜本的に変え、いわばファッショ政党としての第1歩を歩み始めたという発言があった。

多様な意見を押しつぶし、ファッショ化を推し進める党に対して、否をつきつけ、一致団結して選挙で勝つことが野党の使命となる今回の選挙戦は、今後の日本国の命運を左右する大きな転回点となるに違いない。