水谷川優子さんの演奏

朝、水谷川優子さんのCD『歌の調べのように』をかける。最初にそのチェロの音に接したのは(メールを調べると)2002年10月25日、鎌倉で開かれた演奏会だった。お茶で知り合った人からの紹介で演奏会に伺ったのだが、演奏を聴いて驚いた。

一音一音を丁寧に、しかも全体として見事に整った気品ある演奏。水谷川さんの音楽と真剣に渡り合っている姿には、こちらもそれなりの姿勢で臨まねばならないという気にさせられる。

かといって、その演奏が堅苦しいわけではない。水谷川さんの演奏会によく足を運ばれる高齢のご婦人は、水谷川さんの演奏を聴くと、腰の痛みも和らぎ、身体に精気が漲ると仰っていた。同感である。

演奏会では水谷川さんはチェロをもって椅子に座った後、天を仰ぎ、それから祈るようにゆっくりと頭を下げた後、意を決したようにチェロを弾き始める。

通常の演奏だと、イメージ的に五線譜が見え隠れしてしまうのだが、水谷川さんの演奏にはただ曲の流れが見えてくる。だから些細なミスも気にならない。

弾き間違えといったことが音楽にとって致命的ではないことをなかなか理解できないでいたが、水谷川さんの演奏に接してから理解できるようになった。

不幸なことに巷ではテクニック至上主義である。もちろんテクニックがなければ、感動もあり得ないのがクラシックの世界である。

この風潮は、欧州のような文化的背景がないのでテクニック重視のコンクールが全盛となったアメリカの影響である。

誰だったか、高名なピアニストは演奏会になると聴衆の目(耳)が怖いと言う。いつ間違えるかと聴衆の皆が注意して聴いているように感じるらしい。高名とはいえ、そのピアニストの修行が足りないのではとも思える話だが、演奏会で演奏に耳を傾ける人々の姿勢として、とりわけ音楽通を自称する人々にはそのようなあら探しをされる方が多いように感じる(音楽通ではないが、私もかつてそうだった)。

ともあれ、気品というか、精神的な貴族性というか、そうしたものを感じる水谷川さんの演奏には孤高のチェリスト、フルニエの演奏を想起させるものがある。『丸山眞男 音楽の対話』を書かれている中野雄さんが、マイスキーヨーヨー・マは確かに上手だが、気品が感じられない。一方、フルニエの演奏にはこちらも背筋をぴんとしないわけにはいかない、とどこかで述べておられた。

フルニエの演奏を聴く際、彼がナチス占領下のパリに踏みとどまり、抵抗の意思を示した経緯などを知っているために、気品さを感じてしまうのかもしれないと中野さんは書かれているが、こうした精神の高貴さとか気品ということは現代ではあまり見られなくなっているように思われる。

とりわけ日本ではそうかもしれない。数十年前に丸山は以下のように書き留めている。

「バッハのマタイ受難曲の旋律には、17世紀のドイツのポピュラー・ソング、それも失恋の歌からとったものが少なくない、といわれる。なあんだ、それを『知識人』が一生懸命えりを正して、いかにも敬虔な表情で聞くのはこっけいだ、もっとくつろいでエンジョイしていいのじゃないか-----というような反応の仕方をするのが、知識人の間に支配的な日本の「庶民主義」である。失恋の通俗歌は古今に腐るほどたくさんある。そこから素材をとって、あのようにエルハーベンな作品を作り出したのは、大バッハだけだった。その点が大事なのだ。もうそろそろ引き下げデモクラシーから訣別したらどうだろう」(125頁)

先月の演奏会の後、或る人が水谷川さんにライバルは誰ですかと質問した。水谷川さんはライバルはいません、誰もが1番なんですと答えられた。我々はとかく上手下手で考えがちだが、それは音楽の評価には第一次的には関わらず、各々の音楽世界があるだけだということだと理解した。

誰もが唯一の音楽を奏でるわけだが、それでいて彼女が自足している様子はない。常に意欲的に新たなるものに挑戦され続けている。その持続性を見習わねばと感じる。

さて、論文論文。。。