アンジェイ・ワイダの映画を観て

灰とダイヤモンド』などで有名なアンジェイ・ワイダ監督の作品『コルチャック先生』(1990年)を観る。

映画は実在の人物コルチャック(本名はヘンルイック・ゴールドシュミット。この発音はどうもドイツ語の発音に思われるが)を取り上げている。彼は「子どもの権利条約」の理念を先取りした人物で、小児科の医者として33歳の折には孤児院の院長を務め、1942年、子どもたちと共にトレブリンカ収容所のガス室で亡くなった。

映画の冒頭、ラジオ局での番組収録場面で、ワイダはコルチャックに、こう語らせる。

「世の為人の為に身を捧げるというのは嘘です。ある者はカードを、またある者は女を、ある者は競馬を好む、それと同じように私は子供が好きなだけなのです。これは献身とは違う。子供のためではなく自分のためになのです。子供が自分にとって不可欠なだけなのです。自己犠牲の言明を信じてはなりません。」

これはマーク・トウェイン『人間とは何か』に通じる(正しい意味での!?)功利主義的な発想と言える(己を空しくして、自然に従うといった仏教的!?発想とは大いに異なる)。

映画の中で頻繁に語られるのが「義務」という言葉。道徳的という形容を付けた方がよいかもしれない。コルチャックが自ら200人の子どもを守る(見捨てない)と宣言する道徳的義務である。

この用法は一般的な義務の用法からは外れるかもしれないが、子どもたちがワルシャワのゲットーから収容所へ強制移送されることになった際、コルチャックは(自分だけが助かろうと思えば助かったわけだが)子どもたちと行動を共にし、ガス室で亡くなる。

日本コルチャック記念実行委員会というHPでは、コルチャックの「子どもの権利の尊重」という理念を以下のように纏めている。

・子どもは愛される権利をもっている。自分の子だけでなく、他人の子どもも愛しなさい。「愛」は 必ずや返ってくる。
・子どもを一人の人間として尊重しなさい。子どもは「所有物」ではない。
・子どもは未来ではなく、今現在を生きている人間である。十分に遊ばせなさい。
・子どもは宝くじではない。一人ひとりが彼自身であればよい。
・子どもも過ちを犯す。それは、子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。完全な子どもなどいない。
・子どもにも秘密を持つ権利がある。大切な、自分だけの世界を。
・子どもの持ち物や、お金を大切に。大人にとってつまらぬ物でも、持ち主にとっては大切な宝。
・子どもには、自分の教育を選ぶ権利がある。よく話を聞こう。
・子どもの悲しみを尊重しなさい。たとえそれが失ったオハジキ一つであっても、また死んだ小鳥のことであっても。
・子どもは不正に抗議する権利を持っている。圧制で苦しみ、戦争で苦しむのは子どもたちだから。
・子どもが自分たちの裁判所を持ち、お互いに裁き裁かれるべきである。大人もここで裁かれよう。
・子どもは幸福になる権利を持っている。子どもの幸福無しに、大人の幸福はあり得ない。

しごくまっとうな話だが、つい忘れがちな視点でもある(最後から2番目の裁判所については、裁定者をどのように決定するか問題が残るが)。

しかしこのコルチャックという人物。今回初めて知った(と思われる)。岩波のジュニア新書に『コルチャック先生』というのがあるから、相当有名だったようだ.....。不覚。

ワイダ監督の作品は幾つか観たが、岩波ホールで観た『鷲の指輪』(1992年)は文脈がよくつかめなかった。ポーランドの政治事情をある程度おさえているつもりだったが、よく分からなかった。

映画の作りがよくないのか、或いは異質な文化の映画だからなのか。

話の筋はよくわかるが、個々の場面や主人公の動作、心の動きが分かりにくかったのは、例えばイラク映画などの普段なかなか接しない文化世界の映画を観た時である。その点、ハリウッド映画は分かりやすいので人気がある.....。

ともあれ、1989年以降、検閲が無くなり、自由に映画作りができるようになったワイダの映画には、彼の特権的な立場から精神的にも財政的にも余裕があるため、映画作りも弛緩してしまったのかもしれない。

かつて丸山はフルトヴェングラーの戦後のベートーヴェンの第5の録音について、「まるで指揮者の『解放感』が精神的弛緩となって現われている、……。つまり俗なコトバでいえば、うどんがのびたようになっている」と言い、「フルトヴェングラーがナチ時代の「第五」で最良の姿を見せているということは、ひとごとでない問題を、私につきつける。(戦争中の労作の方が戦後の『解放』された時代の労作より迫力があるという批判を受けたのは私だけではない。竹内好の『魯迅』しかり、武田泰淳の『司馬遷』しかり、石母田正の『中世的世界の形成』しかりだ。)」(237〜238頁)と述べた。

生命の危険に瀕しているという状況から、深い省察が生まれるのは、例えば永山則夫『無知の涙』を想起してみればよい。

では、現在の状況はどうだろうか。ある種、緊張と弛緩という対立的な関係がすべて緩やかに「弛緩」のインフレとなって現われているように感じる。ハレとケの区別もどうも曖昧であるし、けじめというのがはっきりしない。コンビニに象徴されるような社会・経済構造の問題でもあるのだろうが、すべてがだらけている(なんだか保守的な言説を再生産しているようだが)。

世界を見渡せば、戦争や飢餓、圧政に苦しむ人々は膨大な数にのぼるし、緊急の課題でもある。過去に比べて現在がましな世界だとはまったく言えない。日本はどうだろうか。

功利主義研究の某先生は定年で辞められるときに寄せられた文章で、学生運動の折には友人らが命を落としたことを回想されていた。今現在、例えば2004年7月11日の非暴力のピースパレードに対する渋谷警察署による不当な暴力的介入のように、警察の不法な取り締まりで逮捕されることはあっても、命を落とすことはない(これは断じて「事態がよくなった」ことを意味しない)。

また現代の日本社会は2階層化していると言われる。イギリスでも、Guardianによれば、富裕層と貧困層とで健康の程度が隔たってきているらしい。アメリカは言わずもがな。。。(そういえば、チョムスキーはどこかの対談でアメリカは自由な国だと言っていた。今は何を言っても、せいぜい刃物や脅迫文書が送られてくる程度で(!)、監獄に送られることはないからだそうだ。。。その点、日本も自由な社会なのだろう。。。)

つまり社会状況は決してよくはない。しかしどこか幻想で惑わされているのだろうか。よい意味での危機感がないと感じているのは私だけであるならばよいが.....。宗教はアヘンだと言ったのはマルクスだが、それは現実の社会的経済的政治的抑圧から目を背ける役割を果たすからだ(例えば、日々己の職業に励むことこそ肝要と説かれたりすれば、概して社会的な事件や政治には無関心になる)。

今現在の現実的・精神的状況をどのようにして打破すべきか。一筋縄ではいかない.....。

そういえば、今日は七夕。。。