気を遣わず心を配る

普段接する院生や研究者との会話では、政治や宗教、性の問題などは頻繁に話題となる。しかし一般的には3S―政治、宗教、性(商売!?)の話題―は避けた方がよいと言われる。これらは概して会話を不毛なものにするか、極端な場合には絶縁関係を招いてしまうからである。

政治や宗教、性といった問題は、立脚している価値や前提、偏見が異なれば、議論は「神々の闘争」に陥るが、たいていの場合、そこにあるのは好みの違いだけである。

昨今の流行ではそれを「価値観の違い」と言う。価値観と好みとは峻別すべきだと言ったのは、某氏のお師匠で応用倫理学の大家である。紅茶が好きか、コーヒーが好きかは好みの違いである。そこには、美味しいものがよいという価値観が共有されている。

好みと言えば、蓼食う虫も好き好きで終わるが、価値観というと、たいそうな話に聞こえてくる。しかし功利主義は好みの違いをも単なる偏見として一顧だにしない。だから、評判が悪い。

他人に迷惑をかけなければ何をしても当人の自由であるという倫理は功利主義の基本信条と言ってよいだろう。

ところが、日本は「他者への暗黙の期待が恐ろしく肥大している社会である。その期待に答えないものは、『冷酷』で『不親切』で『官僚的』とされる。…(中略)…『他者』はこういう振舞い方(サーヴィス)をするのが当然である、という暗黙の前提が実に多くあるから、それだけ、『他者』から期待された態度を示されないことから来る欲求不満が多くなる。もし社会が異質的な他者と他者からなるという前提から出発するならば、考え方はすべて逆になる。他者への期待はミニマムになり、むしろ自分の行為が他者の権利や自由の侵害をした結果、責任をとらざるをえなくなることへの注意と配慮がマキシマムになる」(丸山眞男『自己内対話』147〜148頁)。

つまり日本社会では何もしないことが迷惑になり得る構造になっている。だから他人からどう思われているかということが主要な関心事となり、一方で他人から賞賛を得たいという熱烈な願望が、他方でいつ非難されるかという恐怖心が生じる。

こうしたことはかつての「日本人論」ブームの際に言い尽くされたことで周知の事柄だが、日常的にそうした場面に遭遇することは未だ稀ではないように思われる。

一般に功利主義が不評なのは、対立する倫理である儒教道徳や義務論への人気だけでなく、こうした日本社会に深く根ざした問題にも由来しているのではないだろうか。

ともあれ、タイトルの言葉(これは江戸小唄を習われている方から教えられたことだが)は、その点含蓄がある。