お昼〜ジャン・コクトー展

お昼前に、7月31日まで日本橋三越本店新館7階ギャラリーでやっている「サヴァリン・ワンダーマン・コレクション ジャン・コクトー展」に立ち寄る。

Jさんの三越カードのお陰で、一般900円のところ、無料で入場。コクトー好きの姉に影響されて、コクトーの映画や詩、小説、絵、建築物、陶芸などを観るようになったが、今回はとくにデッサンが多く見ごたえがあった。少年のスケッチなどは、眼前に当の少年がこちらを見据えているかのような迫力がある。

コクトーといえば、一連の『オルフェ』作品、『恐るべき子どもたち』を思い起こすが、事実の歴史ではなく、(ギリシャ)神話の歴史こそが重要だと語る彼の哲学には、どうも隔たりを感じる。

そういえば、ギリシャという表記については、田川建三氏が『書物としての新約聖書』の註で触れていたことを思い出した。

最近ギリシアと書くことが増えてきている。ギリシャ史の専門家の方々がそのように表記するようになったかららしい。コクトー展でも終始ギリシアだった。

ギリシアと発音する人には滅多にお目にかからないし、本当にそう発音すると、ちょっとキザっぽく聞こえる。しかしかつてカンボジャと表記されていたものが今ではカンボジアと表記される。私にはこちらの発音に抵抗がない。

これは単に慣れの問題に過ぎないかもしれないが、言語学をしている友人に言わせると、明治か大正か忘れたが、まぁ数十年来の大問題なのだそうだ。

最近おさまりが悪いと感じるのは、アイデンティティや、セクシュアリティといった表記である。多くの人がアイデンティティと表記するし、『ファッションと身体』でもそのように統一した。しかし発音する際はアイデンティティーとなって、アイデンティティと発音している人に出会ったことはない。ならば、アイデンティティーにしたらどうかと思うが、ハタと気がついた。PCの世界では、語尾の「ー」は省略する。例えば、プロバイダ、サーバといった具合である。この影響なんだろうか。。。パソコンを立ち上げるという風に使われるPC用語が、「誰それは国民なるものを立ち上げたのである」といった具合に歴史社会学で頻繁に使われていた...。

またその昔、福沢諭吉が自由をリベルチと書いていたが、今では、リバティーである。こうしたことは、所詮、各人が慣れ親しんだ表記でよいとも思うが、専門に近いところでは、19世紀の経済学者D・リカードウという表記に若干の違和感があった。最近慣れたものの、某先生は、原音に近い表記はリカードウだと言われたが、日本語で発音される際はリカードである。

事の軽重から言えば、どうでもよいことだが。。。

ジャン・コクトー展の後は、半年振りくらいに溜池山王の「かえりやま」でランチ。コストパフォーマンスに優れているばかりか、丁寧な調理、厳選された食材という点で、都内でもトップレヴェルのフレンチである。昨年、ディナーコースを戴いた際は、どのお皿にも満足できるという驚異的な経験をした(たいてい、どこかのお皿で、あれっと思わされることがあるものだ)。シェフの帰山さんの気さくな人柄と料理に対する真摯な態度が全てを物語っている。

Jさんの携帯カメラを借りて、メイン(魚・野菜・茸のパイ包み、子羊のポワレ=焼き加減と味付けが絶品。薄味好みの私には少々塩が強い…けれども、巷のフレンチやイタリアンの塩辛さに比べればすこぶる上品)とデザート(チョコレート・ムース、胡麻プリン)を撮る(前菜は食べるのに気をとられて撮り忘れる)。