ジェンダーフリー

あれよあれよという間に、某企画が今度の日曜日に決まる。いずれも舌の肥えた御仁なので、少々緊張。。。


ジェンダーフリーについて
トラックバックしていただいたブログを拝見して、ジェンダーフリーについて、ちょっと一言。

ジェンダーフリーについて反対している人々は、男らしさや女らしさを否定すると、健全な人格の発達や家庭・文化・伝統の破壊をもたらすと言う。またジェンダーの概念が曖昧だというのも反対の論拠のようだ。だが、ジェンダーの理解について、どうも噛み合っていないようにも思われる。

性差医療(Gender Sensitive Medicine)」も批判の的になっているが、確かに「性差医療」は分かりにくい。或るHPでは、性差医療とは「男女の生物学的性差、社会的な男女の位置付けと相互の関係性、男女それぞれにみられる特有の疾患や病態などの医学的な実証に基づいて行う医療のことです」と解説する。一見すると、sexとgenderの区別が曖昧だ。まぁ、そもそも性差医療の理念については、私もよく知らないので、これ以上、なんともいえないが…。

話を元に戻して、ジェンダーフリー教育が人格の発達や家族、文化、伝統などを破壊するという意見は、単なる偏見に過ぎないように思われる。

伝統、文化といったものの大半は、時々に力のあった者が都合のよいように作り上げたものであるし、伝統と一言で言っても、どの時代の、どの地域の、どの社会層の伝統を伝統と呼ぶのか、相当政治的な話である。

昨今、武士道や自衛隊を称揚するような、時期的にも非常にイデオロギー的に問題のある映画が作られている。伝統的な男らしさとして武士道的な精神を称揚するのであれば、武士の間で潔さよりも騙まし討ちのようなものが当然視されていたことや、武士道とは『葉隠』の「忍ぶ恋」に見られるように、女性との恋愛は価値の低いものとする男道でもあった(女性を遠ざける「硬派」はその名残)ことを称揚して、男らしさの模範として強要すべきとジェンダーフリー反対派は考えているのだろうか。

そもそも男は潔くあれといった、戦時中にでも叫ばれていたような規範を「男らしさ」と結びつけて男子に強要することをやめたからと言って、何か問題が起こるだろうか。

逆に潔くあれといった規範は、それから逸脱する男子に不必要なプレッシャーを与えるだけではないだろうか。

何かの理念を個人に押し付けること自体が誤りなのである。個人的に「男らしさ」とは、かくかくしかじかのものであると表明することはよい。それを他者に強制する点が問題なのだ。

しばしばジェンダーフリー教育反対論者は、社会の道徳的秩序がおかしくなっていると言う。しかしおかしくしているのは、最近異様な形で取り上げられる少年少女や外国人ではなく、もっぱら成人の、しかも中高年の、「普通の」日本人男性であろう。

巷に溢れる汚職や犯罪を見てみればよく分かる。取り締まるべきは多数の庶民の生活を省みず、利権や権益などをむさぼっている人々である。

そうした点をしっかりと踏まえた上で、日本の社会の招来を見据えなければならない。髪型や服装が己の趣味と合わないからと言って、若者を批判して事足れりとしてはならないのである。

ジェンダーフリーとは、まるで男女の性差を無くすような議論に聞こえるが、まっとうな部分では、おそらく、男女の性差によって生じている不合理な抑圧をなくそうとしているだけに過ぎない(これだけでも相当な困難事だが)。

5月にあったシンポジウムで聞いた話では、確か千葉県の中学校で、体育の授業の際、男女が同じ教室で着替えるらしい。もしこれがジェンダーフリーの実践ということであれば、大いにはきちがえている。

男女それぞれに強要されている社会的な役割、期待、規範といったジェンダーの問題が、諸個人の自由な発展を大いに阻害していること。この点は共通理解として持ちたいものだ。

つい現実逃避的にこんなことを書いてしまった。。。報告準備をしなければ…。