合唱のあり方

先日、西洋至上主義者だったと思いましたと言われて、確かに、クラシック好きだと、そのように思われる要素はある。

Gentsというオランダの男声合唱団がある。Londonderry Airの演奏は、絶品だと思う。

一方で、グルジア男声合唱団の歌声を聴いて、ちょっと驚いた。持っているCDとは違うが、こんな演奏がある。

Gentsはもともと聖歌隊出身者が多いので、そんな雰囲気の演奏で、教会なり、室内で歌うという雰囲気が濃厚だ。一方、グルジアはなんというか、青空なのだ。果てしも無く、渓谷や山脈に木霊するような、そんな開放感と広がりを感じる。

それで、どちらかと言えば、自らにないものへの憧憬という点で、グルジアの開放的な合唱こそが、「自然」なのではないかと思えてしまう。

これはある種のオリエンタリズムかもしれないが、男声合唱も所変われば変わるものだ。ひるがえって、日本の男声合唱はどうだろうか。それほど聞き込んだわけではないが、正直、つまらない。クラシックの指導者が多いせいか、発声法からしてつまらない。そんな発声で、日本の歌を歌われては、すべてが台無しである。

クラシックならばクラシックに特化すべきであり、下手に日本の歌曲に手を出してもらっては困る。むろん、英語の歌然り。そもそもほかの言語の歌を簡単に歌えると思うこと自体が冒涜というか傲慢なのである。

日本の伝統は斉唱である。しかも、それはグレゴリオ聖歌のような、調和した斉唱ではなかった。歌舞伎とオペラの違いという点でもそうだが、日本の場合、別の音が重なるということはまずない。

歌声運動やら、戦後の第九ブームもあって、一見、日本社会に根付いているように見えなくもないが、合唱の本場と比較して、なんというか、土着化していない。その意味で合唱はそもそも根付いていないようにも思われる。

合唱はそもそも「祈り」だった。世俗化した社会で、自己満足的なものではなく、普遍的な「祈り」を体現するものとして、合唱がありうるのか。大いに自問するところだ。