純正律と優雅さ

ヴェーバーの未完の草稿に『音楽社会学』がある。これは安藤英治氏らの翻訳で読むことができるが、西欧近代の文化圏の一大問題としてヴェーバーが捉える合理化という視角から、西欧で生まれた合理的な和声音楽を分析したものである。

そこには、それほど独自ではないにしても、興味深い指摘がある。

音楽作品のほとんどすべての宝を家庭に取り入れるためにこの楽器をひろく利用できること、この楽器固有の作品が無限に豊富であること、そして最後に、普遍的な伴奏楽器および教育楽器たりうるその特性、こういうことの上に、今日におけるこの楽器の揺るぎない地位が築かれている。。。もっぱら近代的和声音楽のみを目指しているわれわれの教育は、本質上まったくピアノによって行なわれている。これは、そのネガティヴな側面についてもいえることである。すなわち、旋律という観点から見れば、整律になれたということが、確かにわれわれの耳―音楽を受け取っている公衆の耳―から、古代の音楽文化の旋律的洗練に決定的な特徴を与えていたあの優雅さをなにほどか奪ってしまったのである。。。今日、歌手の訓練はほとんどすべてピアノによって行なわれる。。。そして弦楽器の勉強でも、音の形成ははじめからピアノを規準として行なわれる。こういうやり方では、純正律の楽器によって訓練するときのような、精緻な聴覚が得られないことは明らかである(『音楽社会学』236-237頁)。

高校生の時に初めて買ったYAMAHAのシンセサイザーには、純正律の機能がついていて、それを使うと、指定した調以外は、おかしな音程になった。素人耳にもはっきりと音が変であることがわかるほどだから、あれを無理やり聴けるようにした平均律によって、上でヴェーバーが言う優雅さなるものが喪失したという指摘は理解できる。

彼は続けて、北欧の歌手の音程が平均律的で、イタリアの歌手が純正律的であることを指摘している。歌手の訓練の仕方が違うからだそうだが、最近ではどうだろうか。

ともあれ、合唱の醍醐味は、平均律的な和音ではなく、純正律に近いから美しいのだと言った人がいる。問題は、ある和声が平均律的なのか、純正律的なのか、もし純正律だとするならば、無自覚に聞き取っているのか、それとも聞き分けられないのか、こればかりは、比較してみないと分からないのだけれども、鍵盤楽器に耳が慣れると、「優雅さ」を聞き取る力が失われやすいのは確かだろう。