裁くな

「『人裁けない…』悩む宗教団体」

もうすぐ始まる裁判員制度を前にして、この間、とくに各宗教団体では、その参加の是非をめぐって、議論がなされてきた。

信条なり理念とが現実と葛藤を起こすのは、人の生き死にに関わる場合によく生じることだろう。

キリスト教では、例えば『マタイ』7章1節に「裁くな」とある。これを善悪の判断には該当するが、司法の判断には該当しないと解釈する向きもあるようだが、『マタイ』が書かれた当日は、おそらく、宗教支配があれほど強固になされていた時代だから、道徳的な判断と司法的な判断とが異なるものだと意識されていたとは思い難い。

もちろんローマの支配が及んでいた地域だから、ユダヤ教的な善悪と法的な問題とがストレートに結びつくわけではないだろうが、テクストの文言をそのまま受け取る限りでは、人を裁くなとは、道徳的にも、司法的にも、双方を意味している広い言葉のように思われる。

この点、田川訳の詳細な註ではどのように書いてあるかと思えば、裁くということ自体には、特段の註はない(並行記事の『マルコ』4章24節は、弟子批判の文脈ということだけ)。

ただ民衆を抑圧していた宗教的特権者へのイエスの批判という行為は裁きとは違うだろう。だからその意味では、裁くとは司法的な意味合いにより近いものになる。

問題は、裁く際に依拠しているものが実際は法律であろうけれども、その体現している価値なり倫理というものが、果たして妥当なのか、そして、それに依拠して人を裁くことは実存的にどうなのかが問われていることだろう。

さて、仕事。。。