新かな

遅筆であることを今更ながら実感し、某原稿に苦しんでいるこの頃。

先日、信州で体重を量ったら、さらに2キロ減だった。最近はかつての小食というよりも、腹八分目に近いような食生活になっていて、体重はそれほど変わりないだろうと思っていたので、意外だった。

一応、一日二食は相変わらずで、お昼は一汁一菜か、一汁であることも多いから、むべなるかな。

一方、かつての体重に戻すということで言えば、やはり運動の必要性を感じる。劉備玄徳の逸話として有名な「髀肉之嘆」があるが、状況は違えども、腿の肉を落としたい衝動に駆られる。

さて、日本の唱歌や童謡での日本語表記に常々疑問を感じていたが、最近その謎が解けた。いや、謎というほどのことでもなく、高島俊彦氏の「歌哀し佐久の草笛」というエッセイに次のようなことが出ていた。

藤村の詩で「いざよふ波の」という箇所がある。そこが新かなになると、「いざよう波の」となってしまう。そして困ったことに現在流通している多くの歌詞では新かなが採用されている。

その元凶はどうやら昭和30年代の『日本唱歌集』『日本童謡集』(岩波文庫)と、昭和50年代の『日本の唱歌』(講談社)で、その後の楽譜にある歌詞の多くがこれらの本に即して新かなでつけられるようになったらしい。

「いざよふ」→「イザヨオ」が、「いざよう」→「イザヨウ」と発音されてはお仕舞いである。

しかしパーティーという音が可能になっているように、最近は従来の日本語では存在しなかった発音が生まれ始めている。

その一方で、「メール」は発音も「メール」で、これはエの母音の後のイは発音しないという「ルール」に即した表記であるわけだが、「メイル」という表記も見かける。もちろんこう表記するからと言って、「メイル」と発音する人は稀だし、そう発音されると「滅入る」(というのは冗談)。

こうした表記は統一性を求める性質のものではないし、言葉は生き物だから、そもそも統一するわけがない。人々が自然と感じる表記がいずれ定着していくので、自分が不自然と感じるからと言って、変だという判断には根拠がない。

日本語における漢字表記の問題もいろいろ議論があるようだが、新かなもまだまだ発音上の問題を多く残している。。。