栄村。。。

先週末、豪雪地帯という長野県の栄村に足をのばした。昭和21年には積雪が7メートルを超え、積雪日本一の記録をもつ村だが、この20年ほどの村のあり方には特筆すべきものがある。中日新聞『結いの心』に詳しい。

明治以降、農山漁村から工業地帯への労働力供給という流れに対して、最近ではそうした捨てられた故郷を見直そうという動きがある

もちろん1980年代末に行なわれた竹下政権による「ふるさと創生事業」やUターン就職などの動きはここ30年ばかり続いているし、都市と田舎というテーマで言えば、故郷の価値を見出そうとする動きは明治以降の産業化と同時的に生まれてきたと言ってもいい(近代は反近代と相即的なものではある)。

最近では小泉政権による分権のスローガンが記憶に新しい。竹下政権のふるさと創生事業が「自ら考え自ら行う地域づくり事業」であったことと重ねあわせて、昨今の地方の「自立」への動きは支出の削減を目的とする中央官庁からの「自立」の大合唱と呼応してしまっている面もある。

しかし中央から地方に対して自立せよと言うのと、各々の地方が自立したいと言うこととは大いに意味合いが異なるし、合併反対がすぐさま自立を意味しているかのような二項対立的な図式が流通しているのも問題だ(この点は栄村村長の高橋氏がとくに強調している)。

結局、地方自治体を取り囲む様々な妥協の産物である諸制度をどう活用していくかということには、何よりも、その自治体がその地域住民にとって何が必要であるかということについて議論を積み重ね、ネットワークや組織を作り、粘り強く追求していくほかないだろう。

その意味で、上からの分権の掛け声に付和雷同するのではなく、自治体であることの本意(自治)について、各自治体が反省する必要も出てくる。

それは村おこしという形を通して行なわれるかもしれない。村おこしでは単なる地場産業の活性化なり、グローバルな農業経営によって活路を見出していくことが成功例として取り上げられることが多いが、それは現在の経済構造を補強するものではあれ、対抗文化にはなり難い。

栄村のように、道直しや田直し、「下駄(げた)履きヘルパー」といった経済的な「循環」を目指して活力溢れる村が成り立ってきていることが、現在のグローバルな経済構造における富者と貧者との二極化を推進してしまうのか、それとも有効な対抗文化を形成していくのかは、現時点ではなんとも判断がつかないところだ。

けれども、「中央」に比してひたすら放置されていく「地方」での動きが止め処も無く進行する政治経済のあり方にアンチテーゼを突きつけていることも確かだ。

栄村山里自由大学のフォーラムで内山氏が言及していたが、いわゆる唱歌(例えば『故郷』)が故郷を遠くにて思うもの、捨てるもの、決して永住するものではないところとして表象してきたのはこの点で、興味深い。

どのようなあらゆる新しい試みもすぐさま経済の論理に取り込まれて、その固有の価値を喪失してしまう。それほど経済の論理はしたたかではある。農山村の活性化なり、都市文化への対抗という運動も、そうしたしたたかさを併せ持つ必要があるだろう。。。

帰京後、いろいろ動いている中で、喉を痛めてしまい、数日寝込む。。。