日本語の歌

先日、国立音大でのK先生の企画によるコンサートを聴く。山田耕筰団伊玖磨の歌曲だけを取り上げて、二人の音楽に対する考え方の相違がよくわかる企画。

さてその折、某ゲストが音楽大学では美しい日本語の歌をもっと歌うようにしてもらいたいと仰っていた。

感情や季節の移り変わりなどを豊かに表現する日本語の世界は確かに美しい(ただそれは日本語だけが美しいのではなく、他の言語も多種の美しさを持ちつつという含意をもたなければ夜郎自大でしかない)。

けれども、そうした言い分には大いなる違和感を感じる。別に「美しい日本語」という前の首相が好みそうな表現に違和感をもったのではなく、ベルカント唱法によって、日本語を歌うということに大いなる矛盾を感じた次第。

今回「からたちの花」を歌ったのはソプラノ歌手だったが、しかし歌を聴いているだけでは歌詞があまりよく分からなかった。それもそのはず、そもそも日本語では有り得ない発音で歌っているからだ(しかし大野晋氏的に言えば、子音に必ず母音が随伴するのが日本語の特質と捉えれば、一応、有り得ない発音の仕方ではなくなるが)。

これでは美しい日本語は表現としては有り得ても、クラシック音楽の素養をもった人が歌った瞬間に日本語のもつ音の美しさは一挙に吹き飛んでしまい、滑稽さが残ることになる。

自分が男声合唱団に属していながら、こう言うのはなんとも歯がゆいわけだが、しかしクラシック音楽を学んだ人が歌う日本語の歌を聴くと、かような次第でどうにも違和感が残るのは事実だ。

これは例えば謡をクラシック歌手が歌うことの違和感と通底している。逆に謡をする人がクラシック音楽を歌えば異様に聴こえるということでもある。日本歌曲をやるならば、日本語の歌唱の仕方で歌うのが一番であるとも言える。

この違和感は、日本語の発音が従来のものとは大きく変わっていくか、歌う場合には日本語と言っても発音が大きく異なるのだということが自然のことのように受け取られていくかしないと解消しないように思われる。

またそもそも伝統的に斉唱や単旋律であった日本の歌を(歌舞伎での掛け合いとオペラでの合唱とを比較したら明瞭だが)、合唱曲に仕上げること自体に違和感を感じることでもある。

しかし西洋のクラシック音楽が日本に導入されてたかだが百年ちょっと。三拍子が未だに根付かないところでもあるし、われわれが西洋のクラシック音楽を自らの「伝統」として選択し、受容していくにはまだ時間がかかるのかもしれない。

先日、国立音大でのK先生の企画によるコンサートを聴く。山田耕筰団伊玖磨の歌曲だけを取り上げて、二人の音楽に対する考え方の相違がよくわかる企画。

さてその折、某ゲストが音楽大学では美しい日本語の歌をもっと歌うようにしてもらいたいと仰っていた。

感情や季節の移り変わりなどを豊かに表現する日本語の世界は確かに美しい(ただそれは日本語だけが美しいのではなく、他の言語も多種の美しさを持ちつつという含意をもたなければ夜郎自大でしかない)。

けれども、そうした言い分には大いなる違和感を感じる。別に「美しい日本語」という前の首相が好みそうな表現に違和感をもったのではなく、ベルカント唱法によって、日本語を歌うということに大いなる矛盾を感じた次第。

今回「からたちの花」を歌ったのはソプラノ歌手だったが、しかし歌を聴いているだけでは歌詞があまりよく分からなかった。それもそのはず、そもそも日本語では有り得ない発音で歌っているからだ(しかし大野晋氏的に言えば、子音に必ず母音が随伴するのが日本語の特質と捉えれば、一応、有り得ない発音の仕方ではなくなるが)。

これでは美しい日本語は表現としては有り得ても、クラシック音楽の素養をもった人が歌った瞬間に日本語のもつ音の美しさは一挙に吹き飛んでしまい、滑稽さが残ることになる。

自分が男声合唱団に属していながら、こう言うのはなんとも歯がゆいわけだが、しかしクラシック音楽を学んだ人が歌う日本語の歌を聴くと、かような次第でどうにも違和感が残るのは事実だ。

これは例えば謡をクラシック歌手が歌うことの違和感と通底している。逆に謡をする人がクラシック音楽を歌えば異様に聴こえるということでもある。日本歌曲をやるならば、日本語の歌唱の仕方で歌うのが一番であるとも言える。

この違和感は、日本語の発音が従来のものとは大きく変わっていくか、歌う場合には日本語と言っても発音が大きく異なるのだということが自然のことのように受け取られていくかしないと解消しないように思われる。

またそもそも伝統的に斉唱や単旋律であった日本の歌を(歌舞伎での掛け合いとオペラでの合唱とを比較したら明瞭だが)、合唱曲に仕上げること自体に違和感を感じることでもある。

しかし西洋のクラシック音楽が日本に導入されてたかだが百年ちょっと。三拍子が未だに根付かないところでもあるし、われわれが西洋のクラシック音楽を自らの「伝統」として選択し、受容していくにはまだ時間がかかるのかもしれない。