つれづれ

加藤陶九郎は「民芸運動」という文章で、柳宗悦の「茶器の名物と称するものは、ほとんどみな民芸である」という主張を偉とすべきとしつつ、彼が「民芸においては、作者が誰であるかを問うことに意味がなくなる。むしろ“われ”を離れたものほど、その美しさが冴えよう」という「人間不在の作品を強調」した点を批判している。

それは「“人間の個性の尊厳”を認めないことであり、神に奉仕する奴隷の道こそ人民の道と説くカトリシズム精神の開花であります」と。

柳が職人を「無知」だと規定することには大いに疑問を感じるけれども、陶九郎が使っているカトリシズム精神なるものが若干奇異に感じられた。

ただちょうど今授業で読んでいるヴェーバーの『プロ倫』で、神への絶対的な服従を説いたカルヴィニズムの教説(それはミルトンをして、あのような神が真実ならば、地獄に言ってもよいと言わしめた)を想起すると、「神に奉仕する奴隷の道」とはまさにプロテスタンティズムの一派にこそ当てはまるのではないかと感じてしまったからだ。

もちろん、彼は、近代においても、多くの人々に対して現存秩序への服従を説いたカトリシズムやルタートウムを念頭においているのだろうけれども。

さて、話を戻して、個性ある作品とは何であるのかということを陶九郎は問題にしていたようだ。

個性とはさまざまな定義が可能だが、その人自身が否応なく出てきてしまうもの、とでも言ったらよいだろうか。

作為過ぎてはいけないし、伝統を固守すればよいものでもない。

柳のように作者不在の民芸を主張するだけでは、それまでの思潮に対してカウンターにはなりこそすれ、それ自体で何かを生み出す原動力にはならないだろう。

伝統関係については「守・破・離」がよく言われる。しかし多くの伝統技術が失われてしまった現代では、「守」がどうであったのかということから始めないといけないことが多いようだ。