愛国心

近年、喧伝されている言葉に「愛国心」がある。多くの政治家や老齢の方々が郷愁と共に語る言葉である。

さて愛国とはなんだろうか。そして愛国を志向する心とは何だろうか。

小熊氏の論考に『民主と愛国』がある。実はまだ読んでいないのだが、ペリクレスが民主制を称揚した背景に戦争への動員という問題があったように、民主制は戦争への動員(見返りとしての権利)と分かち難く結びついているというのは周知の事実である。

福田歓一氏が強調したように、基本的に古代ギリシャ以来、衆愚制的な意味合いをもつマイナスの概念であった民主制(Democracy)は、20世紀に至ってようやくプラスの価値をもつ概念となった。

巷間主張される愛国心もこうした歴史とどうやら不可分ではないように思われる。つまり愛国心の中身は「お国のために身を捧げる」こと以外に積極的な価値はあるのかと言われれば、否定的な答えしか出てこない。

まずなぜ愛国なのかという気がする。愛という言葉は伊藤整の虚偽概念としての愛を持ち出すまでもなく、不可能なことへの投企である(おそらく)。

そして国という単位は基本的に政治的な駆け引きによって引かれたものであり、それに自己同一する理由はないし(愛とはまたおそらくそうした同一化の欲求であろう)、地縁や血縁を超えてコミットすることを正当化する論理が愛国である必然性はまったくない。

だから国を愛するということの内実はまったくもって不可解なのである。

日本列島に住む人々への特別の共感と言っても、住人は一様ではない。だか愛国の中身はあいも変わらず、抽象的な「日本人」を想定しているように見受けられる。

そもそも経済的利益に誘導されたアメリカの片棒を担いで戦争に加担している国、社会的弱者をますます切り捨てる国、そうした国を愛することなどできるのだろうか。

苦しんでいる人々に共感したり、何らかのコミットメントを行なう場合、そこに「国」といった政治的な枠組みが介在する余地はない。

おそらく人は目の前に苦しんでいる人がいることに対して、何とかしなければと思うだけで、それが「日本人」でないと分かった途端、その人を冷酷に扱うわけではあるまい。

敢えて愛国と言う言葉を使う必要があるのは、国民ではなく政治家である。私利私欲にまみれ、党派や経済団体の思惑に左右されるだけの政治家に一定の留保を与えるものとして、世論などと並んで、その動機付けに重要なものとして「愛国」を考えることもできよう。

その場合の「愛国」とはバーク的な地域に拘泥しない国家的な見地から物事の判断をするということである。

「日本は一文化・一文明・一民族」とのたまった自民党の政治家がいるが、無意識にそうした思考法にとらわれることはいまだ多いのではないかと感じるが、現在のシステムにおいて、国の政策をなんとかしなければいけないことも事実である。

従来、国のことを想う心は、「憂国」と表現されていた(ように思う)。愛国の士ではなく、憂国の士である。

デフォルメして言えば、憂国とは現在ある国の現在と将来を憂うことである。愛国とは現在の状況をそのまま受容して国に自己同一することである。

現状を仕方なしに追認してひたすら恭順を求める態度が「愛国」の精神的態度と言えば、戯画化し過ぎているだろうか。

しかし人への思いやりがなぜ国家内に収まるべきなのか、その理由は判然としない。そんな了見が狭い理由も見当たらない。

近年のやや情感的なコスモポリタニズムの潮流にはどことなく距離を置きたくなるが、しかし国家を超える共感なり(さすがに連帯とは言えないが)、人としての態度ということ(これ自体、あいまいな言い方だが)を考えると、国にとらわれる必要はない。

西郷が好んで使った言葉に「敬天愛人」があるが、『愛』の対象としての人に国境も何もあるわけではない。