君が代

「起立せぬ親と来賓調査 君が代」だそうである。

「 関係者によると、十三日の定例市議会で、民主クラブの高橋秀樹市議が「保護者や来賓で起立しない人がいる」と指摘。これに対し、伊藤教育長は「(事実なら)はらわたが煮えくりかえる」「『内心の自由だ』と言う人がいるようだが、生徒たちの前で規律を乱すようなことはあってはならない」と答弁し、調査する意向を示した。」

最近、式典などでの些細なことに目くじらを立てる人が多い。そもそも式典は非日常のもので厳かなものである。

ところが最近は式典が日常の延長でしかなくなったため、そうした式典らしさは消え失せた(と言っては言い過ぎか)。だから起立する/しないといった下らない問題で教育委員会が愚かなことを言い出す。

君が代については、様々な政治的思惑が絡んでいるので、一筋縄ではいかないところがある。

ところで作曲家の水谷川忠俊氏によると

 「.....聴衆に歌詞のメッセージを伝えることを主眼にして西洋音楽の技法で作曲された近代日本歌謡と、「催馬楽」「朗詠」とでは根本的に成立が違うからである。「催馬楽」「朗詠」では歌詞と旋律フレーズの不一致は問題とされていなかったのだ。

 君が代」が作曲された当時の宮内省の楽師たちは「催馬楽」「朗詠」など雅楽を最初に学び、後になって西洋音楽を学んだ人たちであるから、彼らの作った「君が代」が雅楽調になるのも当然だった。」

「西洋音楽的な見地から「君が代」を批判すると、作曲家の中田喜直氏をはじめ多くの識者が指摘しているように、歌詞と旋律が一致していないことがあげられる。雅楽の世界に門外漢の一般国民にとって納得のいかない部分が多いのだ。

  始めの「君が代」は1フレーズであるが、旋律は「キミガー・ヨーワー」と、途中できれている。「キミガー」の「ガー」は本来、鼻濁音であるはずだが、たいていの子供はライオンの吠声のように「ガー」と発音する。「さざれ石の」も1フレーズであるが「サザレー・イシノー」となり、「サザレー」では何を意味しているのか解らず、「イシノー」の音型は<石の>でなく、<意志のに聴こえてしまう。」

「「君が代」の歌詞は、江戸時代までは庶民の慶祝のために地歌や長唄、薩摩琵琶などで歌われていたもので、「君が代」が国家の慶祝歌に格上げされたのは明治政府によってである。」

かつてのように日本語のイントネーション(これも場所などの諸事情で千差万別だが)に即した旋律作りが当然であった世界に「あかとんぼ」のような歌が現われると、旋律が歌詞に合っていないと批判されたわけだが、国歌とされる歌には歌っている当事者に意味が分からなければならないから、詞歌一致体がのぞまれる。

だがそもそも「君が代」の旋律がよろしくない。雅楽の器楽調であり、ぶつりぶつりと切れているかのような印象を与えるからだ。

ともあれ富国強兵を目的にナショナリズムを高揚させる必要があった時代とは異なって、現代に国の歌を定める必要があるとは思わない。

君が代がそれほど違和感なく受け入れられる土壌には、おそらく、イヴェントなどで決められる「キャラクター」(およびそのグッズ)のひとつのパターンでしかないという感覚なのだろう。