ミルのデモクラシー論

Mill on Democracyを一応読了。お話の筋としては、ミルのアテネ民主制論を素材にしてdeliberative democracyの観点からミルの政治思想を解釈するというもの。それなりに勉強になる。

ただ19世紀における古典古代の評価という点についてはあまりちゃんと読まなかったのだが、この本での著者の主張は「服従からの自由(フリーダム)としての自由(リバティー)ということに尽きる。

つまりミルの自由の概念を、不干渉の自由、不服従の自由、道徳的自己発展の自由と腑分けして、とくに不服従の自由に着目して、具体的な現実の諸関係に分け入って(例えば女性の権利擁護)個人の尊厳と平等を追求した思想家としてまとめられている。

これまでバーリン流の消極的自由の旗手と見られていたミルにおいて、自由と権力のあり方とが密接に結びついており、その在り方は人々の批判的な討論といった熟議を前提にして成り立っているという解釈である。

功利主義にありがちな抽象的個人ではなく、権力関係の只中にある具体的な個人を想定して、正当な法、正当な干渉が関係的な人間観を前提にしてどのように根拠付けるのかに腐心した人物として、ミルが描かれている。

様々なミル解釈が批判の俎上にあがっているが、バーリンについては、ソヴィエト革命という時代背景が大きく影を落としており、バーリンの不干渉としての自由の定義には、第1に統治形態やデモクラティックな自治に依拠しないで個人の自由(フリーダム)が享受されるということ、第2に社会的政治的義務とは敵対するものとして自由が描かれていること、第3に個人と社会との対立関係が前提されているということについて逐一批判を行なっている。

曰く、ミルは個人の自由を統治形態のあり方と不可分のものと捉え、かつ何らかの義務なしには成立しないと考え、しかもそれは反社会的なものとは見做されないとする。

さらにミルといえば、危害原理が有名だが、危害の概念についてミルは第1に、物理的に直接個人を傷つける危害というもの(これは刑罰の対象になりえる)と、自由な意思決定の機会を禁止するような人間関係の形態をとる危害(広範な正義の概念)を問題にしているという。

ミルの個々のテクストに即すと、やや強引な解釈もあるが、興味深い論点とも言える。某先生は熟議だとか理性による政治だとかいった時点で、そんなものは現在の大衆民主主義、劇場民主主義には何の効力も有さないと仰った。それは一理あるもの、しかし一縷の希望を抱かないと思想が政治にコミットすることなどあり得ないのではないか。

戦後民主主義の虚妄に賭け」たいところである(ここで言う戦後民主主義がどの時点での戦後かは微妙な問題が残るとは言え....)