思想

今日はお昼から横浜に行っていた。発表前に少し時間があったので生協に立ち寄って『国富論を読む』を探していると、岩波新書のコーナーに見覚えのある文字が見えた。苅部さんの名前だった。

あれ、何か書いているのかなと思ったら、『丸山眞男―リベラリストの肖像』だった。帯には「『日本』とは何か、『現代』とは何か 時代と格闘した知的巨人の評伝風思想案内」とある。

丸山眞男が身を置いた思想的雰囲気や知的格闘が平易な文章で綴られている。平易だがレヴェルは決して低くはなく、冒頭、興味深い一文から始まる。

「丸山病、とでも呼ぶべきものがあるように思う」。擁護派であれ、批判派であれ、丸山を論じるときに帯びる一種の熱狂を形容した言葉である。確かに愛憎入り混じった名状し難い情念が数多の丸山論には渦巻いている。

10年ほど前、『赤旗』で丸山批判の論文が載っていたときに感じたのはまさにこの感覚だ。戦時における共産党政治責任を鋭く突いた丸山の「戦争責任論の盲点」が戦後50年以上も経って、しかもあまりよく理解されないまま批判の対象になっていることに驚いたものである。

よい本の条件のひとつは、新しいことを発見した喜びを読者に伝えるのではなくて、読者が以前から思っていたことを明確にしてみせて、読者が自分も実はそう考えていたのだ、よくぞ言ってくれたと思わせることができるものだという。

この本に随所に出てくる綺羅星の如き指摘はまさにこうしたものである。例えば丸山の思考様式はこれまであまりに「体系建設型」に見られてきて、「問題発見型」の側面がなおざりにされてきたという指摘。

そして一番納得のいくのが次の一文。「いったいいつから、批判するとかのりこえるとか、精神を継承するとかしないとか、剣呑な言葉でしか、過去の思想は語られなくなってしまったのだろう。どんな人であっても、ひとりの人間が深くものを考え、語った営みは、そんなに簡単にまつりあげたり、限界を論じたりできるほど、安っぽいものではないはずなのに」

思想を捉える作業というのは、まさにこうした意識の中で営まれるものではないかと改めて思う。ところがいつの間にか自らは過去の思想を十全に理解でき、それを鳥瞰できると思い込んでしまうところに凋落が始まっているのだろう。今日の発表をした後、まさにこうした点を痛感した。