ダ・ヴィンチ・コード

5月20日に世界で同時に封切られるらしい。既に映画自体や配給元のソニーに対するカトリックからの反発が強まっている。映画はイエスの血脈に関するミステリーであり、フィクションに過ぎないのだが。

なぜカトリックはそれほど目くじらを立てるのか。少し前に起きたデンマークでのマホメッドの風刺画事件などとは比較にならないようなレヴェルだと思われるが、こうした宗教的事件には単に宗教的な意味だけでなく、政治的・経済的利害が絡んでいるから複雑な問題ではある。

キリスト教の救世主は人間の原罪のために自ら祭壇に捧げられる生贄となり贖罪した存在だからこそ価値あるものとされる。キリスト教は生前の人間イエスではなく、死んだイエスをキリストに祭り上げて、それにのみ関心をもっていると指摘したのは田川建三氏である。

30数年に及ぶ人間イエスの生き様の凄さを考えれば、死後数十年経って付け足された十字架による贖罪というテーマやイエスの血脈などにはそれほど意味があるとは思えないが(そうなった経緯には重大な意味があるが)、血脈の話はどうもいい加減な話が多くて『ダ・ヴィンチ・コード』で使われているものも歴史的には穴だらけといっていいだろう(映画自体は所詮フィクションであるから、それで別に問題は無い)。

つまり確固としたイエス像をもっているならば、『ダ・ヴィンチ・コード』などの映画は所詮戯言に過ぎないと思っておけばよいのではないか。

そうならないのは、2千年も前の、現代とは政治・経済・道徳・習俗などのまったく異なった社会で人々がどのように生活していたのかということに思いを馳せず、あまりに現代的視点からイエスをキリストとして見ようとする脆弱な視点にあるように思われる.....。