いろいろ

この一週間いろいろあった不動産契約のことが一段落の気配。。。

昨日から経済学史のシラバス作成に追われるが、なかなか厄介だ。ネットで検索すると、様々なスタンスの授業がある。まずは人物に焦点を合わせるもの:数人の思想家だけを扱うタイプ、通史で十数人の思想家を扱うタイプ。次に作品:個々の経済学的著作を毎回一つずつ取り上げるタイプ、幾つかの作品を毎回取り上げるタイプ。トピック:効用・経済人・重農主義重商主義・歴史主義といったトピックに焦点を合わせるタイプ。

講義の目的が何であるのかによって、これらのタイプは分かれてくる。近代資本主義を問題にするのか、近代経済学が格闘した問題を問題にするのか、経済学が前提にしている思想や概念を問題にするのかなど。

また『ライブ・経済学の歴史』のように、経済学史を学ぶアクチュアリティーを意識したものもある。

内容については自分が面白いと思う内容にしなければ、聞く方も面白くないだろうし(それでも面白くないこともあるだろうし)、話し方の練習もしないといけない。。。

話し方といえば、寝る前にぱらぱらめくっていた『形の発見』に所収の丸山・内田・木下の鼎談で山本安英さんの『花若』のことが話題に上がっていた。舞台ではなく、声だけ聞いても大変なものらしい。テープでも手に入れて一度聞いてみたいところだ。

鼎談ではさらに伝統芸能における非論理性がなぜわれわれを感動させるのかという点について話が進んで行く。とくに能では作品の内容についてはほとんど触れないで舞のよしあしを評することが多いという点。

梅若万三郎前場を終えて楽屋で次の出を待っている間、舞台で狂言方がそれまでのストーリーを物語るのを聞いて「ああこの曲はこういう筋だったんですか」と語ったという。また喜多六平太が能で例えば弁慶に扮するとはどういうことかについて問われ、こう答えたという。「お能は子どもの頃から、足が半歩出過ぎたとか、手がちょっと高すぎたとか言われているうちに、弁慶になっちゃうんですよ」。

この鼎談ではこうしたことを「非論理性」という言葉で表現しているわけだが、お能を見て、その舞いに感嘆することはあっても、作品の内容はよく理解できないと思っていたことは、もしかするとこうしたことかもしれない。

「万三郎ともあろう名人が、さんざん舞ってきた有名な能の筋を知らないということは考えられない。....。だのに、その万三郎さんの『百萬』なんかが、身震いするほどわれわれを感動させるわけだね。....。新劇も含めた劇評の場合は、少なくとも作品の思想やテーマがどうであり、どう表現したかが問題になる。が、説明のつかない、しかしときに身震いさせるほど感動させる何かが日本の古典芸能というものを世界独特のすぐれたものにしているのは確かなんだ」(木下)