奈良、民俗学

朝、高槻で魯先生と落ち合い、明日香村を目指す。途中、江戸時代の街並みが残る橿原の今井町に立ち寄る。津田宗久の働きかけもあり、信長の焼き討ちに合わなかったこの街は随所に歴史が香る。江戸期には二重の堀があり、1200軒ほどの家々が並んでいたらしい。

父がふと入った古美術商のお店では、伊万里焼のものが多く並んでいたが、韓半島の机もあって、木目の入り方などについて店のご主人がいろいろ説明をしてくれた。魯先生が韓国人だと知ると、奥の部屋に案内してくれ、朝鮮通信使の大きな屏風を見せて頂く。

ソウル・オリンピックの際にも韓国に貸し出されたもので、とても貴重なものらしい。朝鮮通信使一行が入洛する際の情景を描いたもので、ちょうど油小路を歩いているところだ。

2階からは覗かぬようにというお触れが出ていたので、家屋の2階はすべて閉じられている。洛中洛外図なので、朝鮮通信使がやってきた秋の情景の右の方には夏の祇園祭の様子が描かれている(さらに右の方には桜が咲いている清水寺が描かれているが、珍しいことにこの屏風には冬の景色がない)。

通信使一行はまず三角の白い旗をなびかせた一隊の後に楽隊が続き、お輿となる(店のご主人曰く、昭和天皇崩御の際の一行がこの順序だったとか)。通信使の話から古代の天津神系の政権交代劇や屏風に描かれている服飾の話(時代劇でよく見かけるいでたちとは異なって小刀が結構長いこと、袴をつけず褌姿で刀を差している武士の姿があることも面白かったし、屏風が描かれたのが江戸期前半だったこともあり、女性が細い紐で髪を後ろで束ね、着物も細い帯だったこと、女性の一人旅が増える過程で帯が幅広くなっていたことなど)まで興味深い話を聞かせてもらう。

とくに先に大和を治めた太陽信仰の天津神を熊信仰の天津神が征服したという話は興味深かった。三輪山や奈良の伊勢に祀られた天照がなぜ三重の伊勢神宮に祀られたのかということがよく分かった(単に神武東征に絡んでの話だけではなかったようだ)。また夫婦別姓だった日本社会で明治大正期に女性が男性の姓にさせられた話も興味深かった。

今井町の旧い商家で囲炉裏のようなものを囲んで昼食をとり、明日香村へ。石舞台古墳飛鳥寺とを結ぶ広い道路を作ろうと思って工事をしたら発掘されたという亀形石造物を見る。

ナスカの地上絵を見るような雰囲気の亀の形が曲線も美しく象られている。発掘された遺構の半分ほどは駐車場や遊歩道になってしまっているので往時の姿をしのぶことはできないのが残念なところ。

その後は岡寺へ。日本最初の厄除の真言宗のお寺。本堂に据えられている仏さんは中国、インド、日本の土で作られた朔像。白い肌でインド的な顔の雰囲気に少々違和感を感じる。


そういえば、飛鳥寺の観音を初め、日本でよく百済系と呼ばれている仏さんのほとんどは高句麗系ではないかと魯先生は言われる。言われてみると、高句麗北魏の系統のような気がする。。。

夕刻となったので、冬の寒空で雰囲気のある明日香村をあとにして京都桂へ。途中、民俗学者らしいお話をいろいろ伺う。お風呂の日韓比較も興味深かった。韓国ではお風呂の文化はなかったが(植民地時代に日本人が平壌に銭湯を作ったのが始まりらしい)、現在銭湯は早朝から開いている。日本では夕刻に開いて夜までやっている。

日本の男性はタオルで前を隠すが、韓国や中国の男性がそうしないのは、混浴の風習がなかったからではないかと推論をされた。浴室に同性しかいないので前を隠す必要がなかったのに対して、男女の別が緩やかで(夫婦相和シが説かれた日本)混浴の風習があった日本では、男性は女性に配慮して前を隠したのではないかということだ。つまり混浴においてもそうした形で無放縦ではなく規律があったのだというお話。なるほどと思う。

また大阪の服部にある銭湯で施浴という習慣があるらしい。これは仏教的な考えを背景にして、銭湯が開いている或る時間帯に入浴が無料になるというもの。入り口に誰かの位牌が置かれているとその時間ということらしい。亡くなった方の遺族がその時間帯に入りに来る人へ入浴を施すわけである。さすがにこの風習は知らなかった。

結局11時近くまで桂にいて、それから帰宅すると日付が変わっていた。。。