夫婦の在り様

中国の敦煌で唐代の「離婚状」が発見されたらしい。

時事通信の記事では「中国では長い間、女性は圧迫され、離婚の自由がないとされてきた。しかし、見つかった放妻状では妻の再婚を願う配慮まで言及。「唐代には男尊女卑の風潮はなく、逆に『男女平等』であり、男性が寛容であれば、女性にも選択自由の権利があった」(北京科技報)との見方もできそうだ」とある。

これは、でも、ちょっと読み込み過ぎというか、強引な解釈じゃないだろうか。そもそも「放妻状」とあるように、妻を家から放り出すわけだし、百歩譲って名称はともかく実態は異なっていたのだとするならば、もう少し用意周到な議論が必要ではないかと思う。

一般に言われているように、中国では儒教的な厳格な父系原理による家族・宗族が社会秩序の根幹をなしていたわけで、中国流の処女崇拝も存在していたから、再婚がどこまで可能だったのか微妙な気がする。とくに明清時代、女性の再婚への禁忌は強かったようだ(渡辺浩「「夫婦有別」と「夫婦相和シ」」『中国―社会と文化』第15号、2000年。これは非常に面白い論文)。

日本では姥捨て山とあるように、女性は年老いてからの自殺率が高かった。中国では逆に女性は若い時に自殺した人が多かったらしい(某東洋政治思想史の講義での耳学問)。

日本では女性は次の世代を担う子どもを生み、成長させる役割が中心だったから、子どもが成長してしまえば、その女性の役割はなくなってしまう。だから姥捨て山ということになる。

中国でも女性は子どもを生み育てるという役割が重要だが、その子供の母であるということが家庭内では高い位置付けをされるので、若いときには姑にいじめられて自殺することは多いが、姑が亡くなり、子供が成長すると一挙に家族内での位置が高くなるらしい。

ともあれ、離縁状に妻への配慮が書かれているから、男女平等であったと即断するわけにはいかないだろうし、より気になることは「2人の心が擦れ違い、元に戻るのは難しい」という理由での離婚であった点。

結婚が二人の心情に依拠したものだという近代的なロマンティック・ラヴが近代の遥か以前に存在していたとはちょっと想像がつかない(もちろん存在してもよいけれど)。

近代以前にも情愛の細やかな夫婦は存在していたが、大抵のところでは、結婚が二人の心情の問題だとは観念されていなかった。それはあくまで生産、生活のための和合だったと言える。

しかしこうした内容の離縁状がそうでない離縁状とともに大量に残っていたとしたら、面白い話に発展するかもしれないなと、現実逃避的に記してみた。