午後から

目白の某大で開かれたヒューム研究の集まりに出る。面白かったのは、ヒュームにおける動物的地位の話と、その後のヒュームの正義論。

動物論については、『自己内対話』の或る箇所が思い出される。

儒学の古典、したがってまた江戸時代の論著においてしばしば出会うのは、人は礼をもつことによって禽獣と区別される、とか蟄居して教えなければ、禽獣と同じになるとかいう発想である。

 キリスト教の原罪的思想から見れば、こういう命題は、逆にいえば、礼を習得しさえすれば、教を受けさえすれば人倫が実現されるという意味を含んでいるから、人間に対するナイーヴな楽天主義を表現していることになるだろう。しかし人間がどこま禽獣と区別されるのか、人間の尊厳の根拠はどこにあるのかが切実な問いとして意識されなければ、あれほどのくどさで右のような命題をくりかえすこと自体がそもそも起こりうる筈がない。つまりこういう命題の背景には、人間と禽獣とはほとんど紙一重の差しかなく、したがって、その紙一重のしきりが破られた瞬間に人間行動は禽獣と同じレヴェルに顛落する。その顛落の可能性は、昔々あったのではなく、いつでも、只今この瞬間にもあるというクリティカルな意識が流れていたわけである。テクノロジーの進歩によって、人間と動物との文明度のギャップが日常的な見聞事においてあまりにも顕著になったために、人間の動物からの倫理的進化は、生物学的進化と同様に太鼓の出来事としてしか受け取られなくなり、そのことによって、かえって人間存在の危機一髪的性格が切実に感じられなくなってしまった。儒教の右のような命題を陳腐なお説教としてわらう事しか知らない現代人は、その行動様式においてますます動物的になりつつある。おそるべき逆説がここにある」(159頁)。

最後のヒュームの正義論の核は、所有物(properties)ではなく、所持(possessions)の次元で、「他人に属するものに手を出さないこと」ということにあるという話は新鮮だった。

ともあれ、今日は自転車の鍵が突如消えてしまった。。。早く合鍵を探し出さねば。。。