夜更かし

シュルーズベリーを流れるセヴァーン川

25日の研究会で報告するために、文献を漁っていて、そういえばと思い出したのが、[http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1852850620/blogi41com-22:title=J.R.Dinwiddy, Radicalism and Reform in Britain, 1780-1850, The Hambledon Press, 1992]である。

10年ほど前にコピーしたものをぱらぱらめくると、各章とも案外読んでいて驚く。最近は18〜19世紀の植民地論に興味があるので、ベンサムの人間観について、マルクスと比較検討している論文を取り上げることに決めた。

功利主義の植民地論の最近のトレンドは、ベンサムとミル父子とを区別して論じる傾向にある。典型的なのが、Jennifer Pitts, "Legislator of the world?" in Political Theory, vol. 31, no. 2, April 2003, pp. 200-34.で、今度某ゼミで読む[http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0714684767/blogi41com-22:title=Michael Levin, J.S.Mill on Civilization and Barbarism, Routledge, 2004]もそうした議論を展開しているらしい。

ベンサムとミル父子とを分かつメルクマールは、植民地の住民に自律という価値を啓蒙する必要があると考えるかどうかに拠るようだが、スコフィールドの「ベンサムの植民地、商業、憲法論」(池田和宏訳)『成城大学 経済研究』第148号、2000年では、ベンサムも植民地住民の自己統治能力の有無という観点から植民を容認する立場にあったとしている。

これらの議論には、ベンサムが人間の改良可能性についてどのように考えていたかという問題がある。今度の研究会で報告しようと考えているディンウィディのBentham and Marxという論文で興味深い一節は、ベンサムは人間の改良可能性を信じていたが、完成可能性は信じていなかったという点。この問題について、研究会では議論しようと思う。。。