いろいろ

転居もあって、すっかり更新が滞ってしまった。

8.15は例年通りの会を催す。今年は16日になってしまったが、戦争(敗戦)について語る。敗戦という言葉は、むろん歴史的には「終戦」が正しいように思われるけれども、二次会で伺った某氏のお父上は、「敗戦を考える会」というのは、いったいどのような立ち位置であの戦争を見ているのかと問うた。

侵略戦争、日本の植民地からの解放戦争、イギリスなどの欧米の植民地からの日本による解放戦争などなど、どのような立場で、あの戦争を見るかによって、その規定は確かに異なる。

単なる相対主義に陥らないで、現在のわれわれの立場をいかに選択するか、それが問われているのだと切実に感じる。

その後は、お父上の世代論的な話に花が咲く。。。

昨日は、某所で半年振りの面々で一献。その折、どういう脈絡かは忘れたが、食を共にすることの共同性に話題が移った。

命の糧である食を共にすることは、生命の共有という問題でもあるという話で、そこから某氏がそれは最終的には音楽に至るのではないかと応えた。

フルトヴェングラーが強調していたことだが、音楽が演奏されるその場での共有という事態(この点で彼は録音というものを問題視したわけだが)、これはお茶においては、松風をはじめとする、もろもろの所作や道具の音を介した、その場に居合わせた人々の間主観的な同一化の事態とも言える。

お茶の世界に音楽の入る余地がないのかと問えば、それはいまだ分からないことだが、何の楽器も響いていない「無音」のお茶室の世界にも、実は多種多様な「音楽」が満ちていること、このことは確かなことだろうと感じた日だった。。。