初詣、窯焚き、自転車置き場

最近は大阪でお正月を迎えることが多くなった。初詣は一番近くにある山田神社へ。安陪清明に関係があるらしいこの神社一帯の鬱蒼とした雑木林は治安上の問題で隙間だらけの林になってしまっていた。この「自然破壊」によって狸などの動物らは行き場を失い姿を消してしまったようだ。

午後は生駒山中の窯場へ。昨年は積雪で難儀したが、今年は小春日和だったので、霞がかったような空の下、お昼過ぎから夜までお手伝い。丹波牛のもつの煮込みをご馳走になったが、窯場で戴く料理は美味しい。

10年ほど前に築窯されたアマチュアの方だが、焼きのレベルは「プロ」と遜色がない。信楽のお店に作品を出されているが、よく売れているという。ご本人は「プロ」に比べて値段が安いからと謙遜されるが、見た感じでは「プロ」と同じレベルだから、値段が安ければ、売れるのは当然と思われる。

ただ焼きそのものについては、相当な甘さが残るのも確かだ。昨年末の上田で教えてもらったが全国にある穴窯のほとんどは薪の炎の力ではなく、薪が燃えて炭となった熾きによって焼く穴窯であるらしい。ここの穴窯は熾きで焼くタイプ。

熾きで焼く穴窯か、薪で焼く穴窯かを見分けるひとつの指標は、熾きを取り出すことができる口の大きさにある。本松氏の窯は下水道のような感じで窯の下部に熾きを取り出す通路が設けられていて、燃えた薪はすぐ窯の中から出されるような仕組みになっている。

熾きで焼く穴窯は熾きを取り出す部分が異様に小さい。どんどん薪を投げ込んで熾きをためていくので、1300度以上の白い炎になりはするが、その力は弱く「生焼け」になることが多い。

つまり焼き締めは温度が上がれば焼けるというものではなく、炎の力によって土を完全に焼き締めることを意味するので、炎を自在に操れる必要がある。かつて加藤陶九郎が焼き物師とは何かと問われて、焼きが出来る人と答えたように、焼きがしっかりしていなければ焼き物の真髄はそこにはないのだろう。

もちろん焼き物は焼きだけがよくてもいけない。造形の美というものもあるし、焼き締めが土を焼き尽くすことで使えば使うほど良くなるものなのに対して、楽焼などは焼いた焼き物としては最高のものであり、使えば使うほど悪くなっていく。茶人はそうした楽焼の脆さを逆に美として称揚するから、焼き物に付随する魅力はさまざまな方面から語られ得るものとなる。

焼き物の奥深さ、そしてそれの美しさを実感する場面でもある。

ところで、大阪に帰省して驚いたことは自転車のコインパーキングである(もちろん関東でもあるが、それは駐輪場のこと。関西では歩道にある点が違う)。場所はJR高槻駅前。関西ではあちらこちらで普及しているらしい。

歩道の脇に自転車を整然と置くことができるので、放置自転車のように乱雑な印象はないが、どうも解決策としてはいまいちな気が.....

さて昨年を振り返ると、前半は『経済思想』の論文と『ファッションと身体』の翻訳に追われていたような気がする。7月からこのブログを始めてあっという間の半年でもあった。その間、先月提出した植民地に関する論文や学会報告などをのぞくと、初夏の早朝、清々しい心持で伺った朝茶事、晩夏から信州青木村に出向いて本松氏から伺った焼き物のこと、11月の水谷川さんの珠玉のリサイタル、短期間で仕上げた年末のマトゥーリ男声合唱団のコンサート、一座建立の某会の記念お茶事など、素晴らしい経験があった。

今年は少し帰省の期間が長い。尤も1月中旬には初釜のお茶事に伺い(初釜のお茶事は数年ぶり)、マトゥーリ男声合唱団の練習も始まる。16日には今年最初のベンサム研があるので、その準備も少しずつ進めよう。

ここで今年の抱負

生活に思想を。日々にけじめを。自分に厳しく、弛まず、品位をもって。

手始めに、姿勢を正し、話し方を正すことから始めることにしよう。

尺八の吹き方をヒントに、上半身が腰(骨盤)に適切にのるようにして、一点をしっかりと見据え、立ち居振る舞いを正そう。

「え〜」とか「あの〜」といった余計な音を発しないようにして、ゆっくりとお腹の底から発声する。不必要な相槌を打たず、相手の話をしっかりと聞くようにしたい。

これだけでも結構な難事ではあるが、こうした外面的なことと同時に内面性をも鍛えて行きたいものだ。