キリスト教の行事

七面鳥を食べるのが習慣となっている「感謝祭」。いろいろなHPを見て初めて知ったが、感謝祭の起源はマサチューセッツにやってきたピューリタンらが荒れ果てた土地で食べるのに困り、「インディアン」らに救いを請うて、様々な食べる手立てを教わり、翌年の最初の収穫の時期に彼らを招いて神に感謝したことにあるらしい。

このように聞くと、5千万羽近くの七面鳥が感謝祭の日に食べられることも、それほど「野蛮」には思われないが、七面鳥にとっては感謝祭のために飼育され殺されるわけであるから、「受難」の日でもある。

さて、キリスト教のお祭りの一つにクリスマスがある。Wikipediaで初めて知ったことは、「ヨーロッパでも他の国に比べると古いキリスト教の国であるスペインや、イタリアでは、クリスマスは12月25日に始まり、1月6日に終わる。」らしい。

「スペインでは12月25日には三人の東から来た王様は、離れた場所に置かれ、毎日子供達は王様を少しずつキリストの生まれるうまやへと近づけて行く。1月6日に三人の王様はキリストに出会い祝う。子供達はこの三人の東から来た王様からのプレゼントを朝に見つけることになる。」

「東方から博士が来た」という話と、「賢者は3人である」という神学と、「キリストは厩で生まれた」という話が「共観福音書」(19世紀のドイツ聖書学でマルコ、マタイ、ルカの3福音書をまとめてこう呼んでしまった。確かに同じ事件・テクストを「共に観ている」という点では当たっている)のように見事に混合されていて興味深い。

クリスマスという行事そのものは、ミトラ信仰などのヨーロッパの太陽神信仰の行事「冬至祭」を取り入れたもので、イエスの誕生日とは何の関係もない(そもそも記録もないし、誕生日に特別な意味を付与する習慣もなかったようだ。イエスという名前自体、とてもありふれたものだったので、「ナザレ」で生まれた「イエス」と福音書でも呼ばれている)。

冬至の日は太陽の生まれた日であり、それに関連付けて、キリストの誕生日=クリスマスだとしてキリスト教布教の道具として利用したという面もあるし、政治権力に否をつきつけたイエスを骨抜きにして聖人に祭り上げ、支配の象徴に転化した意味合いもある。

その点、プロテスタントスコットランド長老派はクリスマスを異教的な起源のものとして、現在でも認めていないとの記事もあった。確かに聖書を尊重するならば、クリスマスという行事は排除すべき行事となる。宗教的儀式を極力排除し、脱神秘化しようとしたプロテスタントに特徴的な態度だ。

ちなみにこのイエス誕生の作り話がシルクロードを通って、日本に伝わったと思われるのが、聖徳太子の逸話。厩で生まれた王子の話である。例えばこちらを参照。

クリスマスをローマカトリック系は12月25日で、ギリシャ正教系は1月6日で祝う。スペインやイタリアなどでの祝い方はその原型かもしれない。

ただ商業主義に毒された最近のクリスマスの行事に対しては、キリスト教徒の側からも、敢えて祝わないでおこうという動きもある。

ネットで見ているとこんなサイトがあった。そこで「キリスト教は、一神教の見かけの内に古いヨーロッパの魔術性(多神教性)を保存している。」という指摘はまさにその通り。

例えばカトリックでマリア信仰などがあるように、キリスト教は純粋な一神教ではない。正統派が三位一体と唱えなければいけなかった理由も、そうしたところに原因の一端がある。

日本(そして韓国)では政治、経済、文化、いずれの分野でもアメリカの影響が強いため、キリスト教理解もその例外ではないが、「世界」のキリスト教の在り様を見ると、その複雑さに驚かされる。