ベンサム論

こちらに7月の間だけ、ベンサムに関する文章を載せてもらっている。一般向けのつもりが、あまり読みやすい文章になっていないのは、なんとも恥ずかしいことながら、「マルクス入門」と期せずしてシンクロしている部分もある。

お時間のある方は、ご笑覧ください。

違和感

ちょっと必要があって読んだ渡辺喜美氏のプロフィール

 座右の銘はさまざまなミッチー語録。決断を迫られたとき「ミッチーだったらどう考えるか」と発想する。
 決断力、度胸、歯切れの良さは父親譲り。政治家を志したのは中一のとき。新人議員だった父の話に、カミナリに撃たれたような衝撃を受けたのがきっかけ。プロ野球選手になることを断念し、父と同じ道を歩むことを決意。柔道部に入り、行商人であった父の苦労を知ろうと新聞配達を始める。「繁栄した国家や文明は数あれど繁栄し続けたものは一つもない」という父の言葉を肝に銘ず。

スポーツ選手の自伝的な話によく出てきそうなことだが、昨今、自分の親を公的な場で褒め称える人が多いようで、どうも違和感が残る。

他人に話す際には、身内に尊称をつけないといった「伝統的な考え方」の影響もあるかもしれないが、上の渡辺氏のように、父親へのべた惚れな態度の表明には、自律云々を主張している割には、依存的=バランスを失しているように思われる。

みんなの党に胡散臭さを感じるのは、それが目指す価値というか理念が不明確だからだ。日産のゴーン氏が不採算部門を切り捨て業績が向上したかのように装ったように、民間活力をお題目に、改革のための改革に勤しんでいるように見える。

尤も、みんなの党が主張するような改革提言には、面白いものもいろいろある。

ただ民主制評価という点では、どうだろうか。最小のコストで最大のベネフィットを性急に求めているだけでは、戦前のファシストと同断だ。

手拭い

温泉に行く度に、何か違和感を感じていたところ、先日、そうか、これはタオルのせいだと思い至る。

ひなびた温泉などに行くと、人が湯船に浸かっている風景に、タオルがあると、なんとも変な感じがする。

浮世絵などで、江戸期の風呂の様子を見ると、手拭いを使っている様子がとても似合っている。

むろん当時は町人身分あたり以下は基本的に混浴だが、男女とも手拭いを使っている姿は清々しささえ感じてしまう。

先日、伊豆へ行った際に、手拭いをもっていけばよかったのだが、忘れてしまい、それから自宅では手拭いを使ってみた。

若干、ふき取りの機能が弱いところがあるが、さわり心地といい、風情といい申し分ない。

今度温泉へ行く際は忘れずに持っていこう。

動物性食品

現代の食生活で動物性食品が健康を害することについて異論はないかと思っていたら、まだまだこんなページがあった。

気になったのは、以下の箇所。

乳製品・タマゴ・肉などの消費が増え始めた40年前に比べ、心疾患は実質50%も減っています。

こちらを見ると、そんな傾向はないように思われる。

また年齢調整死亡率と言っているが、これは都道府県の比較をする場合に必要なことではあっても、日本人全体の傾向を見る場合には、あまり意味が無いように思われる。

明らかに動物性食品の摂りすぎがリスクとなっているアメリカ人同様に、日本人も、「動物性食品を減らせ、減らせ」とみんなが口をそろえていますが、これって、脳卒中も、ガンも、心疾患も「増えろ、増えろ」と言っているようなもの。食事から確実にカットしていくべきものは他にあるのに、そちらについての触れて人はほとんどいません。大企業保護のためなのか、本当にわかっちゃいないのか・・・。操作された健康情報を鵜呑みしても、健康になれないことだけは確かです。

動物性食品を、もっと日本人に消費してもらいましょうというアメリカの宣伝にしか見えないようにも思われるが、どうだろうか。

精神論、保守、、、

たちあがれ日本のサイト。よく指摘されるように、ほとんどの党員は70歳前後だ。応援団長はなんと石原都知事

70歳になっても、政治という、どろどろした、しかも人の生活を左右する、恐ろしいほどの責任が伴う世界にいたいという精神構造は、どうにも理解に苦しい。

しかも、相当な激務のはずだ。大丈夫だろうか(家族も心配していることだろう)。

さて、その結党趣旨を今更ながら見てみると、以下の3つが挙げられている。

「いま、日本があぶない」
「凛とした安心社会へ」
「数より覚悟の政党」

危機を煽り、中身のない理想を掲げ、変革の力は「覚悟」にあるという精神論。

これが保守を名乗ることに、日本における保守思想の相変わらずの脆弱さが露呈している。

しかし、そもそも保守という言葉に付きまとう悪いイメージは払拭されるべきだと思う。

あるいは、conservatismに保守主義という言葉を当てるのはやめたほうがいいのかもしれない。

何らかの価値を守るという点で、死守では変だし、伝統も変だし、、、何かよい訳語はないものだろうか。

それとも、カリスマ的な人物による「保守」の「大伝道」が行なわれることで、イメージが一新するかもしれない。

もっとも、こういうと、功利主義も似たようなもので、某先生のように、誤解も含めて、今の訳語を使うべきだという意見もあり得る。

いまひとつよくない功利主義のイメージも、NHKで放映されたサンデル氏の功利主義批判によって、さらなるイメージダウンとなったのではないだろうか。

さて、こちらのイメージアップにはどんな戦略が可能かな。。。

Christian Thielemann

N響のコンサートで、Philharmonyの6月号をもらったので、ぱらぱらとめくっていたら、海外動向 ドイツ・オーストリアのところで、ティーレマンウィーンフィルと取り組んできたベートーヴェン交響曲全曲演奏を終えたらしい。

しかも、第5は「オーケストラが去っても彼だけが4回も呼び出されるというのはここでは異例のことである。第9では最後の棒が振り下ろされた後、数秒間沈黙が会場を支配した」そうだ。

ドイツ人指揮者ということで、とくに優遇されているかもしれないが、「フルトヴェングラーの再来」と言われたこの指揮者には、期待が高まる。ここはDVDを購入すべきか。。。

ザ・コーヴ

明治大学も映画「ザ・コーブ」上映・討論会を中止だそうである。

上映会・討論会を開いて、上映反対派による暴力事件を危惧したのだろう。明治大学も、外観とともに、大きく変わってしまったものだ。

地元の漁協は


「イルカ捕獲は日本の伝統文化で、漁はすべて合法的だ」
と主張しているらしい。

実際は生活もあるから、さまざまな主張があることと思われる。が、これでは、なぜ捕鯨が問題視されているのかについて、ひたすら平行線を辿るだけだ。

可愛いから、知能が高いからといった理由だけではなくて、もっと倫理的な問題であるのだが、伝統だから、合法だからという理由では反論にならないだろう。多くの差別は、かつて伝統であり、合法でもあったことを想起すればよい。

ところで、産経がこんな説明書きを載せている。

「イルカや鯨を食べることは他の魚や肉を食べることと同じはずだが、映像を武器に感情論で批判するのが反対派の常套(じょうとう)手段だ」

感情論で反対している人は多いのかもしれないが、ここ40年ほど欧米でなされた議論について、だんまりを決め込むのはあまり生産的ではない。

イルカや鯨、魚、そして、上で肉と言われているのは牛や豚、鳥を指すと思われるが、これらを同列に論じることもちょっとどうだろうか。

こうした議論は、結局、食べ物のことで「外人」が口を出すなとか、感謝して「いのち」をいただくことこそが大事という「感情論」に終始してしまうのではないだろうか。

そもそも、日本の国内でやっていることは善であるという妙な共同意識が抜きがたく見られることへの違和感も大きい。

ある視点から見れば、ひどいことなのかもしれないけれども、「同じ」日本人なのだから、そこは、まぁまぁといった、馴れ合いの文化がいまだ一部の人には強固にあって、その圧力で、映画という娯楽に歯止めがかかってしまうのは何なのだろう。

そして、また日本の伝統と、「日本」が持ち出されることにも違和感がある。

ザ・コーヴ』は潜入取材などをしているらしいから、画面酔いしてしまうので、残念ながら映画館では「見れない」だろう。

レンタルして見るしかないか。。。